2016年2月7日

「日本二十六聖人殉教者祭」
講話・ミサ説教

ミサ主司式
洗礼者ヨハネ川村信三師(イエズス会)
共同司式
ステファノ・ボナベントゥラ加藤英雄師

● 講話 「殉教、今、高山右近に倣う意味」
          講師  洗礼者ヨハネ川村信三師(イエズス会)

進行:1時になりましたので、2016年度日本二十六聖人殉教者祭を開催したいと思います。
まず、プログラムのはじめに、講話「殉教、今、高山右近に倣う意味」、イエズス会司祭、洗礼者ヨハネ川村信三神父様にお話を伺います。
よろしくお願いいたします。

川村師:
皆さん、こんにちは。イエズス会の川村と申します。今日はお寒いなか、日本二十六聖人殉教者祭にお集まり頂きまして、こんな拙い私の話を聞いてくださるということで、私も楽しみにしてやって参りました。
今日は2月7日ですけれども、2月5日が二十六聖人の記念日ですが、昨年からこの日の話をしてくださいと言われていまして、では高山右近の話をしましょうということを言っていましたが、何とタイムリーに、1月22日に、この高山右近が、やっと列福されるという、ご存じですよね、やっと認可が下りました。教皇がサインをしたということです。後は、これを列福の式にまで、どうするのかというのが、今の、大きな問題のようです。司教様方は、たぶん、来年の春でしょうか、私は想像で言っていますけれども、列福式を大々的にやりたいと考えておられるのではないでしょうか。出来ればフランシスコ教皇が日本に来られて、列福をするというのが一番良いシナリオなんですけれど。これは、日本が勝手に考えるわけにはいかないようなので、待っている、というところなんでしょう。けれども、一番良い形で、歴史的な、私たちの模範である高山右近を顕彰できればと思っています。
それで、今日の私の題目は、「高山右近に倣う意味」という、現代的に考えてみたいという事もあるんですけども、少し皆さんと一緒に、高山右近について思いを馳せてみたいと思います。1時間ぐらいですので。午後1時というのは一番眠い時期で、大変なんですが、とにかく頑張って1時間、何とか努めたいと思います。最後、5分か10分ぐらい、もしも質問を受ける時間が出来ればと思っています。
2年前になりますが、NHKの大河ドラマご覧になってましたか? キリシタン大名、黒田官兵衛(くろだ かんべえ)でした。もうかなり昔の話になりますが、そのキリスト教考証を私がやっていました。スタジオにいつも出向いて、いろいろと演技指導をするわけです。演技したこともない人間がですね。私がするのは、十字架の切り方がどうだとか、聖堂にどうやって入るのかとか、どんな歌を唱うのかとか、どんな祭壇を作るのかとか、どんな行列をなどいろいろな事があって大変なことになってきたんですが。8月に黒田官兵衛さんの洗礼式がありまして、その洗礼の準備を全部私がしました。衣装もなく、何もないところを私は一生懸命に衣装を集めました。それを私が大きなかばんに入れて持っていきました。それをそのまま、皆、使いました。で、何を話しているかというと、ここに出てくる黒田官兵衛をキリスト教に導いた立役者といいますか、中心人物があの高山右近だったわけです。高山右近という人物の人柄といいますか、その霊性といいますか、スピリチュアリティーに触れた戦国大名であった黒田官兵衛が受洗していくという、そういう話が伏線にありました。一般的には、キリシタン大名なんてだれも問題にもしませんから、『軍師官兵衛』というのが表に出た番組なんですけれども、やはり私たちの観点は、キリスト教の考え方がどういうふうに日本人のなかに染みとおっていくのかという、そういうのが描くお手伝いができればと思っていたわけです。それはうまく描いてくれました。
だいたい、そういう所で何かやると、「あれ間違ってるよ」とか、「あのシーンおかしいよ」と言うのは、だいたい、キリスト教信者です。特に、キリシタン大名やキリシタンの人たちは、すぐにロザリオを首から掛けるでしょう? それ、カトリックの人は許しません。ロザリオというのは祈りの道具なのに何で首から掛けてるんだ、不作法じゃないかと。すぐにNHKに電話が掛かるんですね。そういうことを避けるための、私は一つの保証でした。だから、「専門の人にちゃんと聞いていますよ」と。私がどれ程の保証になるかわからないですけれども、この人にちゃんと聞きましたからねということで呼ばれていたわけです。ところが、キリシタン大名たち、特に高山右近の話なんかを史料で読んでいますと、キリシタン大名たちは首からロザリオを掛けていることがあったりします。出陣する時に、みんな首からロザリオを掛けていたと書いてあります。だから良いんだと、映像に出したら、必ず電話が掛かってきます。「おかしいですよ、あれは。」
高山右近のイメージ、皆さんはどんなイメージを持たれていますか? おそらく、名前はよく知っているけれども、あまり具体的なイメージがないんじゃないのでしょうか。肖像画は、時々見たことがあります。大理石の像の顔は見たことはあるんですけど、あれだって、いわば現代人が考えた空想です。そういう意味で、私たちは、高山右近をどういうふうにイメージするかというのがものすごく難しいわけです。ところが、私のイメージとしては、大河ドラマで演じてくれたイケメン俳優の生田斗真という人のイメージに、いますごく影響されています。皆さんはどうでしょうか。それは冗談として、ともかく、高山右近という人の生涯は、実は、ひじょうに面白い生涯です。これからその一部をお話します。
一番はじめに、お城の乗っ取り事件があります。そして、そこでけがをし、けがをさせたという大げんかをしている。これは戦国の常でもあります。その傷で相手方が後で亡くなっているという事もあります。その後、今度は、信長に脅迫されます。荒木村重(あらき むらしげ)という人物が裏切ったのにどう対処するのかと。その信長に対して、武士としての名誉も地位も捨てて、私は信仰で生きますと言ったかと思ったら、ある時は、二畳のお茶室で黙想している。信長が亡くなった「本能寺の変」の時には、すぐに駆けつけて、後で「山崎の合戦」で彼は最前線で戦っています。みごとに勝利をしています。その次の年、賤ヶ岳の戦いでは、彼は戦わずして逃げています。江戸時代の歴史書には、高山右近はおくびょう者として書いてあります。そして今度は、高槻です。高槻の城下をキリシタンの国にしようとしたのだけど、その矢先、大坂の教会作りも手伝うのですが、その後すぐに、明石に飛ばされています。秀吉によって。我々の先輩のチースリク神父様は、これは加増されている、4万石が6万石になっているので栄転であると。たぶん高山右近にとっては良かったんだという評価をしていますが、私はむしろ逆だと思います。後でお話しいたしますけれども、高山右近は、完全に、キリシタンの高槻から切り離されています。そのあと秀吉と共に九州に入っていった右近は、伴天連追放令というのに遭います。そして、これまでの地位を失って、そのあと金沢に行ったりして、最後は1614年に、マニラ・ルソンに追放されていく、そんな生涯ですよ。だから、彼の生涯をずっと見渡してみると、何か一つのイメージというものは、全然沸きません。あるところで勇敢に戦っているかと思えば、あるところでは全然戦わずして逃げてるみたいなうわさもあり、ひとり静かに黙想しているかと思ったら、激しい命がけの闘いもしている。非常に分かりにくい。立派な右近どの、という言い方はするんですけども、その「立派さ」というのがどういう「立派さ」なのかということです。
そこでちょっと今からいろいろ考えてみたいと思います。
列福列聖特別委員会というものがありまして、188人の列福式の時にはいろいろと、動きましたけれども、今回はあまり動いてなかったんです。でも、列福式があるか無いかということは全然考えなかったんですけど、ひとつ本を書きました。今までにいろんな人が、高山右近をいろんな切り口で書きました。それで、教会関係者たちは、この方は素晴らしい方だ、列福・列聖するんだという勢いの、顕彰目的で書く。そういう書物がたくさんあります。それから、この人はキリスト教の武将であるという観点から書いた人もいますし、いろんな観点から考えた人もいますけれども、私がこの期に及んで何を付け加えるんだと思われるかも知れません。皆さんは、高山右近の生涯をよくご存じですし、大体評価も決まっているし、もう何も付け加える必要が無いんじゃないかと思われるんですけれど、さっき申し上げたとおり、イメージとしては、いまだにハッキリとしてないところもあります。
これは、実は和辻哲郎(わつじ てつろう)という哲学者で、『鎖国』という大きな本を書いて、鎖国というのが日本の悲劇だということを書いた方がいるんです。キリシタン史というものを見てみると何か違和感がある。どんな違和感かというと、一般の歴史と全く交わってないかのような印象を与えているということです。キリシタンの歴史を一生懸命にみんな考えるし、高山右近の話もするし、いろんな話をするんだけれども、一般の歴史と接続してないと。どうでしょうか。ということで、私は歴史の専門ですから。どちらかというと日本史の。日本史も世界史も両方やっていますので、世界史的な観点から見た日本、日本のなかの戦国時代、戦国時代のなかのキリシタン史とつないで見たときに、我々は少し見落としていることが、幾つかあるのでは無いかというのが、私が書いた本の一番根幹にあります。
例えば、高槻。皆さんイメージ沸きますか? 行った事ありますか? 私は神戸出身なので、あの辺は地元です。淀川というのがあります。淀川は京都の南で三つの川が合流して、ひとつの淀川になって大阪湾に注ぐという川です。高槻は、大阪湾に向かって、どっち側にあると思いますか? 右側です、右岸です。高槻、そのおとなりには茨木というところがあります。茨木の向こうには吹田というところがあります。吹田の向こうが池田、伊丹、西宮となります。これらは全部「西国(さいごく)街道」という街道沿いです。でも、400年前の当時の人は京都から大坂へ行くときに西国街道は使いません。淀川の左側、左岸に河内という国がありますが、右が摂津、左が河内です。実は、大坂の方へ行くためには、ほとんどの人たちが河内を通って行きました。それで、現在はどうなっているのかというと、今は京阪電車というのが通っているんですけれども、実はこの辺り、昔は湿地帯です。ですから河川(水運)を使った交通でした。
いま私が話そうとしている河内国キリシタンというのは、そうした沼沢地の住人たちでした。そういう、昔の地図をよく見ながら、京都を中心とする畿内のキリシタンというものをちゃんと頭に入れたときに、高槻の位置というものがわかってきます。高槻のキリシタンたちは京都と結ばれていますし、時々、今、大阪湾と言いましたけれども、これは堺のことで、堺の町にいつも出入りしているんですね。しかし、その時に通るのはどこかというと、ほとんど河内国なんです。だから、畿内のキリシタンを語るとき高山右近を摂津と高槻だけで語るのをやめましょうという話です。畿内のキリシタンといったら、この淀川の右側と左側、両方を考えないといけないのです。そして、信者が育ったのは、実は高槻に負けず劣らず河内ということです。キリスト教の、京都の町でキリスト教が流行って、それがどんどん拡がっていくときに、はじめに行ったのが河内だという話です。河内といったら、現在の守口、枚方、四條畷などです。日本史と接続する意味からすると、この河内地方には、キリシタンが入る前に、強力なもうひとつの宗教団体が存在していました。本願寺派です。本願寺というのは、実は右岸、高槻周辺にも「寺内(じない)」という宗教独立自治共同体みたいなものを作っていきますが、河内の方にもたくさん作っています。こういう、宗教が凄く盛んであったところが、だんだん、キリシタンになっていきました。ドミノ倒しのように。これ考えたことありますか? 
で、大坂には大坂本願寺というのがあるんですよ。大坂本願寺は誰と戦っていましたか? 信長ですよね。じゃあ、信長は尾張という、名古屋の尾張と、岐阜・美濃から攻め入って行って、畿内にだんだんと勢力を拡げていったわけですけど、どこを拠点に大坂本願寺を攻めていったかというと、やはり河内です。西国街道の高槻近辺の摂津ではありません。高槻のほうにも行ってますけども、そういう意味では、あの頃、1550年から1560年頃の河内というもの、あるいはその北の摂津というもの、両方考えていくことによって、実は信長勢力がどんどん浸透するところにキリシタンが出てくるんです。それで本願寺派勢力をどんどん追いやっていきました。そして、最終的に大坂で、という話です。そんなところにキリシタンは存在しました。その近くに高山右近が登場します。そういう話で、そして、先ほど言いましたけれども、京都のキリシタンたち、一番はじめに京都に宣教に行ったのは、ザビエルですよね。ザビエルが宣教して10日間で彼はもうあきらめてます。ここには来るんじゃなかったと。
それで、その辺りの人にいろいろと聞いてみたところ、いま日本で一番栄えているのは、大内さんだよと言われたんです。大内氏。山口の大名じゃないですか。何でそんなところが栄えてるんですか。大内家というのは、実は細川家と凄くライバル関係があって、京都の方では、将軍の周りにいる人たちです。で、大内さんは、実は、堺の貿易の権利を握ってしまいます。その堺の貿易商人たちは、どことの商売で儲けたかというと、実は日本と明の日明貿易で儲けている人たちなんですよ。だから、外国にすごく目を開いている人たちです。大内義隆(おおうち よしたか)は山口にいますけど、ザビエルはそのところに乗っかってきたんですね。そのザビエルがやっぱり都は駄目だなぁと思って、がっかりしたのはなぜかというと、彼が来た頃、実は一番勢力を持っていたのは、天皇でも将軍でもなく三好長慶(みよし ながよし)という人物です。
この人物が、やはり畿内に、最高の実力を持ち、足利将軍を追い出しました。それで、足利という名のつかない中央政府を8年間も支えたのは、この三好長慶だと言われていますが、この人物、実は、京都を捨てます。京都から出て行ってどこに行ったかというと、河内です。河内の飯盛山というお城です。実は、三好長慶が飯盛山に移って、河内を中心に日本を支配しようとしたのが、1560年です。1560年に、京都にいたのが、ガスパル・ヴィレラという神父様です。この人物から結城忠正(ゆうき ただまさ)という人物が洗礼を受け、結城忠正の息子、結城左衛門尉(ゆうき さえもんのじょう)が河内国でどんどんキリシタンを増やしていきました。それがまず先にあって、それに乗っかった形で、今度は高山右近の父飛騨守友照が同じ様にキリシタンになっていくという歴史です。とにかくそういう日本史との接続を考えた時に、高山右近の立ち位置というのが、どういうところにあるのかということがだんだん分かってくるんですね。

ちょっとこれ使ってよろしいでしょうか(ホワイトボードへの書き込み)。

「1551年か1552年。高山右近が生まれる。」
高山右近は、だいたい、1551年か52年に生まれといわれています。51年というのは、ザビエルが日本を去った年です。52年はザビエルの亡くなった年です。これ覚えておいてください。ザビエルが日本を離れた頃に高山右近が生まれました。
「1563年から64年。高山家が受洗する。」
63年から64年と少し幅を持たせておきますが、この時に高山家が受洗しています。キリシタンになりました。
「1574年。高山家、高槻城の城主になる。」
「1578年。荒木村重の謀反。」
高山家の主君は信長なんですけれども、その下の荒木村重の謀反ですね。すいません小っさい字で。こんなのちゃんとプリントを作って、皆さんに配れよっていう話なんですけれども、済みません、時間の節約をしています。
「1582年。本能寺の変。」
いま高山右近の人生の転機みたいなことを書いています。
「1583年。賤ヶ岳の戦い。」
さっきも言ったとおり、本能寺の変の後の山崎の合戦で、右近は大勝利を収めています。先頭に立って活躍しました。なぜかというと、彼の領地の高槻が、ちょうど山崎の横にありまして、最前線にあてがわれてるわけです。で、勝ちました。賤ヶ岳も最前線にいたんですが逃げてます、という話です。
「1585年。明石へ領地替え。」
「1587年。伴天連追放令。」
「1614年。日本を追放される。」

受洗したのが63年。74年に高槻城に入り、この時に、和田惟長(わだ これなが)という人物と斬り合いをして追い出してます。そして、荒木の謀反です。それから本能寺、賤ヶ岳、明石、追放と。今までの人たちは、こうやってきれいに年表を整理してくださって、ひとつひとつ説明してくれるんですけれども、ひとつひとつ説明されても、高山右近がどういう人物か浮かび上がってくるとは思えません。それでどうするか。この中のふたつずつを一緒に考えていったときに、見えてくるもんがあると思っています。
こう言っているのは、私が初めてです。「受洗」と「追放」は置くとしてですね、高槻城に入った時の和田惟長を追い出した事件と、荒木村重の謀反にどうするかと対応を迫られた右近。実は、同じプロセスとして考えた時に、あるひとつのものが見えてきます。それから、先ほど言った大勝利と大敗戦の、敗戦といっても逃げたんですけれども、そのふたつを一緒に考える事によって、やはり新しいものが見えてきます。それと明石に転封(てんぼう)というのですか、国替えになったことと「追放令」というのは、よくよく見てみたら、同じ状況から説明することが可能なんです。
高山右近の、苦悩といいますか、彼の心の中の葛藤がハッキリ見えてきます。(高槻城主になる)、乗っ取り事件ですよ。お城を乗っ取るんですよ。ある資料にはこう書いてあります。父飛騨守友照と高山右近のことをみんなが慕っている。そして、それを嫉妬して亡き者にしようとした和田惟長が呼び出して、ふたりを亡き者にしようとしたが、逆に、前もって知ったこの親子に返り討ちにされてしまった。いや、もうひとつの資料はこうです。和田惟長という高槻のお城の城主が、謀反を起こそうとしている。そのうわさが荒木村重の耳に入った。それを探ってこいといわれた親子が行ったときに斬り合いになったと、全く違った証言が残っています。
それで、荒木村重の謀反の場合は、皆さんご存じの通り、信長が脅します。荒木村重を説得してこいと。説得に成功したらキリシタンを全部許してやる。説得できなかったら皆殺しだ。お前どうするんだと言われたときに、右近は、「武士も捨てて、お城も捨てて、私は一キリシタンとして生きる」といったときに、信長はなぜか許したという話です。このふたつの事件、全く違うような事件に思われてますけど、実は、荒木村重が深く関わっています。和田惟長が高槻城で謀反を起こそうとしていると言ったのは荒木村重です。探ってこいって言ったのは荒木村重なんです。それで今度は荒木村重が信長と一緒に行動できないと言って謀反を起こしたときも、やっぱり張本人は村重でしょう。だから、この荒木村重という人物を中心に考えた時に、その間にはさまって、ひとりの苦悩する、右近という人物が浮かび上がってくるという話です。荒木村重がキーパーソンであることはまちがいありません。この荒木村重がどういう人物かというと、さっき三好長慶の話をしましたが、その家臣に、松永久秀(まつなが ひさひで)がいるのですが、この辺の、畿内の、京都中心の政治とからまった、ゴチャゴチャ状態の中から出てきた人です。という、それがひとつですよね。これが第一。高山飛騨守友照は松永久秀の家臣でもありました。
第二番目は、「本能寺の変」の後の山崎の合戦・天王山です。あれは高槻城・高山右近領の目の前ですから、西国街道というさっき言った街道の京都の入口です。そこに高山右近と、いとこの中川清秀(なかがわ きよひで)が最前線に置かれたわけです。最前線に置かれたときに、彼らは勇敢に戦ってなぜ勝てたかというと、黒田孝高(くろだ よしたか)すなわち黒田官兵衛とか、それから、羽柴秀吉の弟の羽柴秀長(はしば ひでなが)だとかそういう人物が徹底的にバックアップしたわけです。それで勝てました。ところが、賤ヶ岳ではまた最前線が置かれましたが、今度はバックアップを全くされてません。孤立しています。そういう意味でも、このふたつを比べてみたら、戦国武将としての彼の評価はどうすべきかというのも出てくると思うんですね。彼は無能だったとか、彼は特別優秀だったとかいう意味ではなくて、戦術面で、最前線に置かれた人々を全軍でどう支えなければならないかという問題になってくるように思います。このふたつは。だから、高山右近の個人的なことを細かく批判しても仕方がないというのが私の結論です。
第三番目は、さっきも言いましたとおり、明石に領地替えされました。加増されました。だから皆は、良かったと言うんですけれど。場所は明石です。この時まだ秀吉軍は毛利と和解していません。ということは、播州明石はどういうところかというと、やはり最前線ということになるわけです。何となく最前線大好き右近みたいな感じになっています。でも、それは「置かれた」ということです。そして、追放令というのは、よく見てみたら、あれは単にキリシタンが駄目だという追放令ではなく、よくよく読んでみたら、秀吉の全国統一のひとつのプランであることがわかります。「私がすべてを決めます。」各領地の領主が領民のことを何か強制してはいけない。なのに、ある人々は、全領民をキリシタンにしているじゃないか。そんなことは許せませんということが書いてある法令です。では、明石に転封された高山右近は、それまでどうだったのかといえば、高槻に、完全なキリシタン国を作っていました。それを切り離して、今度、明石に行った。明石でもまたすぐに信者が増えたというんですけども、右近にとってはもう青天の霹靂です。それが、今度、具体的な形になって示されたのが、「伴天連追放令」です。これは読んだらすぐに分かります。つまり追放令に書かれたことのモデルは、右近だったに違いないということです。
という意味で、高山右近の生涯。武将としての生涯。これをふたつずつ見てみると、やはり非常に、私たちが単にこの人は立派な人間ですよ、この人は勇猛な武将ですよという以上の何かが見えてくる、そんな気がしています。
そして、いろいろなことが言われるわけですけれども、高山右近は、最終的には、いつも苦境に立つんですね。そして、何か選択を迫られています。あなたはどうするのかと。その選択を要求されたときの、彼の下した決断が他の人間とは全く違っている。その決断がどうやら、全く彼の計算というか、そういうものを度外視した結論が出ていると思いませんか? 例えば、謀反の時に、信長に迫られた時に彼は、武士をやめますと、すべてを捨てて信長の前で成敗されると思って行ったのに、許された。彼はたぶん、何の計算も何もしてません。もう、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで行ったと思うんですね。これがひとつです。
それから、賤ヶ岳の戦いから、やめて出された。皆からも逃げたと言われた。そして、絶望の淵にありますけれども、その時に彼は何をしましたか。それから今度、追放令の時に彼は何をしましたかという話です。それで、今日のこの話の題名は「高山右近に倣う意味」、意味なんですけども、やはり私たちの、この現代の、現代人から見た高山右近が、例えば意味を持つとしたら、どういう意味かということをちょっと考えてみたいんです。
もちろん信仰者です。信仰というものが、いつも彼の選択肢にあって、いつもそうしてます。でも、それだけでしょうか。もちろん、それだけでもすごいわけですけれども。あの、この「計算の無さ」です。私が見たいところは。何かこうやったら上手く行くとか、こうやったら有利な立場につくとか、そういう関係で彼は全然人生の選択をしていません。常にあるのは「御旨」ということでした。それで、何か私たちもこういうところを、高山右近に学べないかと思うわけです。例えば、私たち人生で生きていて何かいろんなことあります。絶対失敗します。苦境にも立ちます。その時に、私たちが最も考えなければならないことというのは何かというと。これで終わりである、これで絶望する。もう何も上手く行かないんだと思ってしまうのか。それとも、いや、何とかなる、きっと何かうまく行くんだといって希望を持ち続けるか。どっちかだと思います。それで、高山右近という人はたぶん、計算しない、どん底に行ったときに、主に従っておれば、主の導きに従っていれば、何も恐れることはないと確信していた人だとは思います。何があっても良いと。ある意味でいつも捨て身なんです。何があっても大丈夫。彼の選択にはいろんな計算とか、そんなものが全然感じられません。むしろ、将来に対する、明日に対する希望が貫かれています。これ以上悪くならないというか。彼は武将です。戦国武将ですから、武士の身分を取り上げられるというのは、大きな苦悩だと思いますし、キリシタン領を作ろうと思って、キリシタンを一生懸命に頑張っていたキリシタン領主が、その領地から切り離されていくことも大変なことだと思うんです。こういう所にあって、高山右近という人は、別に恐怖を感じているふうでもないし、不安を感じているふうでもないし、その運命そのものを受け入れているようです。この辺り、私たちはひとつ、今の、現代の生き方として見るものがないでしょうか。
追放令が出る直前に、右近が宣教師に話したという記録が、ある言葉が残っているのですけれども、右近は自分が追放に遭うということを何年か前から、すでに予想していたと書いてあるんです。おそらくこのままだと、私と秀吉の考え方、天下を作ろうとする秀吉の考え方とキリシタンの国を作ろうとする私の考え方が絶対に上手くいくはずはないことを、数年前から既に知っていたと言っています。そして、実際そうなってきた。そうなった時に、全然慌てなかった。そういう言葉が残っています。
まとまりがつかないですけれども、とにかくそういう人物であったということです。だから私は、単に立派な人であったとか、何も迷わずやった人じゃなくて、迷いに迷ったあげく、そういう道をとった人ではないかという気がしています。それで、高山右近の最後の、日本を出る時の最後の言葉というのが、高山右近から細川忠興あての書簡に記されています。これは高山右近が残した最後の文章といわれているのですけども、こう書いています。

『近日出舟仕候
仍此呈一軸致進上候
誠誰ニカト存候志耳
   帰ラシト思ヘハ兼テ
   梓弓ナキ数ニイル
   名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命堕
名ヲ天下二挙是ハ
南海二趣命懸天名ヲ
流如何六十年之
苦惣別申候此中之御
礼ハ中々不申上候々々
恐惶敬白
南坊
九月十日 等伯(花押)』

『近日、出舟仕り候。よって此のほど一軸進上致し候。誠に誰にかと存じ候。志のみ帰らじと思えば兼て梓弓、なき数にいる名を留まる。彼は戦場に向かい、名を天下に挙げ、是は南海に赴き、命を天に懸け、名を流すは如何。六十年の苦、忽ち別れ候。この中の御礼はなかなか申し上げず候。云々』
現代語で言いますと、
『すぐにでも船出致しますので、一筆を献上致します。一度放たれた矢のように、もう再びこの地に戻るまいと決心していますので、ここに、その死ぬ覚悟の者の名を永遠に書きとどめようと思います。彼 楠木 正行(くすのき まさつら)は、戦場の雄姿として命を落とし、天下に名を知られました。私は南国に至り、命を捧げるのは天のデウスの国であり、この世に名を残すのではなく、神の国に名を留めようと思います。この六十年の人生の労苦を思いお別れ致します。言葉には尽くせませんが数々のこと御礼を申し上げる次第です。』
という、これは彼の辞世の句みたいにいわれているものなんです。この四行ぐらいの言葉のなかに、いろんな決意が込められているわけですが、これは、楠木正行(くすのき まさつら・楠木正成[くすのき まさしげ]の嫡男)という人物が書いた辞世の句を踏まえています。
『かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる』
楠木正行というのは、まだ若い時に戦場に出ようとして、皆が命は粗末にするなと。お前は戦場からすぐに帰ってきて次のことを考えたら良いじゃないか、命を無駄にするなと周りの人が言いました。その時に正行は、私はこれが最後の戦いだと思っている。だから二度と帰らないという決意をしたためた過去帳の代わりに、寺の壁に自分と同志の名を刻んで戦場に赴いた。これを右近はきれいに自分の最後の手紙に取り入れています。もう私は死ぬ覚悟です。もう帰りません。それで、これだけだったら良いんですけれど、次に彼は、あなたは戦場で名を挙げて名を留めるでしょう。私は戦場ではなくて、天の国で名を留めたいですと言ってるわけです。この辺りも、彼の複雑な心境がうかがえると思えるんですね。自分も武将でしたから、そういう意味では、命を賭して戦った武将として名を残すという選択肢も有り得たのだけれど、私はそうはしなかったという句です。
何か、ちょっと、これを読んでいると、本当に彼の生涯を知っていると、何かちょっと、グッとくるものがあるんですけども。そんな人物です。だから決して彼は、生まれつきの敬虔な信仰者であったとか、素晴らしい人だとか、意志堅固な有徳の士だとかいうんじゃなくて、もう悩みに悩んだ人であった。悩みに悩んだんだけど、その自分に与えられた運命を静かに受け入れていったということでしょう。その静かに受け入れた選択の決断の指針は、いつも、信じること、決して絶望しないことでした。
今回の列福は、高山右近を殉教者としています。殉教者です。殉教者というのは、実は三つの条件がありまして、「死ぬこと」それから「キリストの信仰のゆえに死ぬこと」と「無抵抗で」ということがあります。彼は殉教者として死ぬことには直接関わっていないので、実はこれはすごく議論されたところなんです。しかし、この高山右近は、最終的には11月に船出して2月に亡くなってますから、この船の旅の疲労が死因であったということも含めて殉教者といわれています。
いろいろなことを語らなければいけないんですが、時間が無いのでこれくらいにします。もう一度、さっきの私のポイントを繰り返します。恐れない。どんな状況になっても希望を失わない。慌てない。恐れない。不安を抱かない。その原動力は「主にまかせる」「主を信頼する」ということです。それは右近にとってこの世の主君ではなく、絶対的な天上の主、イエス・キリストを通して示された主だったといえます。そういう高山右近の生涯というものを、もう一度見つめてみたら、私たちの、私たちが置かれているこの人生のなかで、私たちの信仰がどう活きるのか、どう活かせば良いのかということが出てくるのではないかと思っています。

何か質問があったら、質問を受け付けながら話をふくらませても良いんですけども。

Q:非常に基礎的なことで、私、高山右近さんについて知識が無いもんで、非常に基礎的なことなんですが、追放令が出てから、実際に追放されるまでタイムラグが少々ありますよね。その間っていうのは、彼は軟禁とかされていた状態なんでしょうか?

A:まず、追放令が出てから、彼は小豆島に渡って、これはたぶん小西行長が助けたんだと思うんですね。それから今度は、彼は九州に渡っていって、肥後、これも小西行長領ですけれども、肥後に行って、そしていろんな宣教師に会って、ここで霊操をしていたといわれています。イエズス会の「霊操」ですね。そして、今度は金沢に行くんですよ。これは、前田利家(まえだ としいえ)がかくまったんですけれども、前田利長(まえだ としなが)もキリシタンのシンパであったといわれていて、金沢でかなりの期間を過ごすんですね。私はその金沢のところを全く飛ばしています。その研究もたくさんありますけども、幽閉じゃないんですね。実際に右近は後で、自分から関東の北条攻めとか、慶長の朝鮮侵略ですか、そっちにも加わろうとしたり、いろんなことをしているんです。かなり自由だったみたいです。あの、秀吉って面白い人で、キリシタンを、伴天連追放令を出しても、全員を、キリスト教を完全に禁教にするかというとそうではなくて、許すんですよ。おとなしくしていたらおとがめしません、みたいな。だから、高山右近もかなり自由に、4万石くらい貰うような武士の身分として、金沢で生きていたということなんですよ。ただ、その後の家康たちが徳川幕府を作って、本当の禁教令を始めた時に、彼らは、処刑されるか追放されるかのどちらかに、という時に、やっぱり追放されたということですね。これはたくさん本がありますね。これについて書かれた本が。

Q:高山右近は、今回、列福されたんですけれども、天草四郎は、やはりまだ列福の条件にはならないんですよね。

A:さっき、殉教の三つの条件ってありましたよね。あれでいうと天草四郎さんは、武器を持って抵抗してしまっていますから、殉教者にならないんですよ。しかも天草四郎って、本当に存在したんですかという疑問まで出ています。天草・島原一揆というのは、実は、小西たち有馬の旧臣、すなわち古い家臣団たちが起こしたといわれていまして、実は、天草四郎さんは、名前を借りられただけなのではないかと。ということで、たぶん列福は無理です。

Q:生き方自体が、私たちカトリック信者が、よく信望愛という三つを持ちますね。信じること、愛すること、それから望むこと。そういう事とこの生き方というのは、やっぱり合致しているんでしょうか。それが一つと、小豆島へ行ったり、いろんな形で、小西行長(こにし ゆきなが)云々で、最後に前田藩に行って、約25年ぐらい暮らしますよね。すると、前田がいま、利家さんや利長さんも、一応、貿易というものを、ある程度、鉄砲だ、火薬だ、色んなもののために、一つは利用したという事も考えられないんですか?
A:考えられます。
Q:ということは、キリシタン大名は7人ぐらいいますけれど、その全員がキリシタンでかかってきちゃった時には、秀吉は危ないと考えて、追放令をゆるやかに出したという考え方でも良いんですか?
A:えーとね。キリシタン大名がかかってきてどうのこうのという話じゃなくてですね、たぶん秀吉が一番怖れたのは、キリシタンというのが、領域をまたがりますよね。例えば、大友宗麟の豊後と、高槻のキリシタンというのは結びつきますよね。それが一番怖かったんだと思いますよ。一向宗もそうなんですね。全国にネットワークを作るんですよ。そして、その時の領国支配というのは、領主がバラバラにいて、その上に天下人がいるからうまくいく。だから、バラバラにしとかなきゃいけないんですよ、皆は。くっつかないように。ところが、キリシタンとか一向宗っていうのは、すぐに連絡を取り合うんですね。それはやっぱりね、許せなかったと思いますね。だから、鉄砲とか、軍事力の話ではなくて、さっきの伴天連追放令の話ですけれども、秀吉の全国支配にとって、キリシタンという在り方は、絶対に許せなかったんだと思います。
Q:ということは、主なる神がいて、藩主同士の繋がりの上に神がいるから、それでまとまって、秀吉を攻めると。
A:そう。それで、伴天連追放令でもそうなんですけれども、領民というものはずっと同じ土地にいると。同じ所に。一生涯、変わらない。でも、領主は変えられると。これを変えられるのは秀吉だけであると。そういう全国支配をしようとしている中に、その支配の枠組みを崩すのが、やっぱりそういうネットワークを作る人たちなんですね。そういう意味で、やっぱり許せなかったんだと思いますね。
だから、そういうことも含めて全部見てみないと、なぜキリシタンが追放されるのかということが分かってこないというのが、私の、一つのポイントなんですけどね。キリシタンが軍事力でかかってくるとか、そういう意味ではなくて。

進行:時間ですので、ご質問はあとこの2問までにさせて頂きます。

Q:高山右近はこの計算でいくと12歳で受洗してますよね。これは、本人が望んだんですか? あるいは親も一緒に、あるいはだれかが……。
A:はい。本人に聞いてみないとわからないんですけれども……。親だと思います。彼が信仰に目覚めるのは1574年頃、すなわち、22~23歳の時だと私は考えています。

Q:今日は貴重なお話をくださいましてありがとうございました。ネットワークのこととも関係しますが、秀吉を生み出したネットワークと高山右近を生み出したキリシタンのネットワークが元々違うから、秀吉はキリスト教の側を認められなかったという立場で質問させて頂きたいんですが。
秀吉も徳川家康も最前線に立つという時はあって、それは、高山右近と同じく最前線で戦って、秀吉の場合は桶狭間でも姉川でも勝ってますし、徳川家康の場合は三方原で徹底的に負けるとかありますけれども、秀吉の時には山の衆というふうに表現されるかわかりませんが、横の繋がり、すぐ連絡を取り合うネットワークがあって、それで、最前線に置かれた時は、そのネットワークの支えによって勝つことが出来ているんですが、高山右近の場合は、賤ヶ岳の時、要するに山崎の戦いの時は大手の資本がバックにあるわけですけれども、賤ヶ岳のように最前線に置かれた時、本当に実力が問われる時に、その時に、やはり河内の、当時のキリスト教の方々、私たちと同じアイデンティティを持つ人たちが、もっと高山右近をバックアップ出来たのではないかなぁと。そういうのは、現代の日本の社会にも言えて、やっぱり権力者層とか政治家層の人たちにカトリック信者がいる時に、そこを、私たち一般の信徒が、もっとバックアップしていけるような、そういった横の繋がりというものを作っていくことが現代社会に求められているのではないかという観点から質問をしたいんですが。こういった考え方についてどのように思いますでしょうか。 A:それについてどう思いますか、ということですか?
Q:要するに、秀吉が高山右近のコミュニティーを切り崩さなければならなかったということは、秀吉は山の衆というような、日本国内に別な横の繋がりがある、すぐに連絡を取り合うネットワークがあって、そこの出自として天下を取ったので、キリシタン、カトリック信者が日本の社会の中で根を張るのを、自分の出自を考えた時に、認めるわけにはいかなかったという背景があるのではないかと。それで秀吉は、日本国内にあった横のつながりネットワークの出自として天下を取ったということは、歴史の説としてはある程度固まっていて、それが、桶狭間の戦いですとか、姉川の戦いの時に、本当に最前線に置かれた時に、なぜ秀吉はその最前線で大手の資本のバックも無いのに、中国大返しもやったけれども、なぜ勝てたのかといわれた時に、野武士だけではなくて、横の繋がりのある山の衆といって、もともと日本人同士のなかにあった、人と人とのつながりのなかにあった、そこの社会に受け入れられていたから、そこが支えになって天下への道が開けてくると。ですから、信長が比叡山を焼き討ちにした時も、その逃がしている作業を秀吉が出来たというのは、そういった人と人とのつながりをバックにしていたと。秀吉はその出自だったので。ですから、この高山右近のような方が、バックを得られなかった時に、秀吉はその出自を考えた時に、キリシタンというかカトリックの信者の立場を残していくというわけにはいかない状況になっていたのではないかと。そういう質問です。
つまり、コミュニティーという言葉を使いたくないんですけれども、コミュニティーとコミュニティーがぶつかり合っている状況が。河内の辺りにカトリック信者がいて、そのコミュニケーションを受け入れるというは、秀吉にとっては、自分の出身のコミュニティーとの関係性とのあいだで、それは、認めることが出来なかったんじゃないかと。 A:認めることは出来なかったでしょうね。
Q:その観点からすると、高山右近への評価は、出自に対する、支えてきたバックに対してどうなのかという質問です。
それが、賤ヶ岳の戦いのような時に、本当に最前線に置かれた時に勝てなかった理由というのは、大手の資本がバックになくて、それで勝てなかった理由というのは、そのコミュニティーのバックアップが著しく弱かったので、それが、秀吉が最前線に置かれた時に勝ち続けている理由と、高山右近がなぜ勝てないかという質問です。
A:お答えしたいんですが、ちょっと時間がありませんので、また私の書いたものを読んで頂ければと思います。すいません。

進行:ありがとうございました。

いま本の題名を教えてくださいということで伺いましたら、あくまでも仮題らしいです。『キリシタン大名高山右近の生きた時空』だそうです。よろしくお願いします。

● 「日本二十六聖人殉教者 ミサ 」 
         主司式・説教 洗礼者ヨハネ 川村 信三 師(イエズス会)

ミサへの招き

十 父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。
また司祭とともに。

日本二十六聖人殉教祭の、このミサを皆さんとともに捧げます。
400年前の戦国時代の終わりに、26人の聖人たちが、日本人たち、それから外国人宣教師たちが長崎の西坂で殉教していきました。その姿を私たちは信仰の模範として生きるためにここに集っています。私たちも一人ひとりが信仰に生かされて、その模範に倣うことができるようこのミサのなかで祈りたいと思います。

それでは、皆さん、神聖な祭りを祝う前に、私たちのおかした罪を認めましょう。
全能の神と・・・。

第一朗読 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ2・19-20)
福音朗読 マタイによる福音(マタイ28・16-20)
〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

司祭 主のみことば。
会衆 キリストに賛美。

説教 川村師:
1744年にマニラで作成された二十六聖人の殉教図というのが有名で、これが二十六聖人の列福式の報告書の表紙になっているものがあります。たぶんご覧になった方があると思います。真ん中から十字架が両側に、遠近法で伸びているのですけれども、何度数えても十字架に縛りつけられている人の数が「23」しかありません。その主な人びとはフランシスコ会の修道服です。と言うことは、「3人」いたはずのイエズス会ははぶかれているというわけです。これはどういうことでしょうか。実は、この二十六聖人の26人というのは、フランシスコ会が列聖申請のために作製したものです。当初、石田三成によって捕らえられた時には、すべてフランシスコ会系の人を捕まえるようにと言われていたのです。実は高山右近もそのリストの筆頭に名前があったそうです。ところが、秀吉も三成も、それをわざと取り除けたそうです。今回はフランシスコ会の人だけだったそうです。
ところが、大坂の教会に滞在していたパウロ三木は捕まってしまいます。そのあと、途中から加わった二人のイエズス会の同宿といいますか、ディエゴ喜斎たちがイエズス会ではなくて、信徒として連れて行かれて、長崎の西坂の刑場で、刑の執行される3日前にイエズス会の誓願を立てています。何が言いたいかといいますと、二十六聖人の殉教は確実にフランシスコ会の事件ということです。それをフランシスコ会とイエズス会が別々に列福調査・列聖調査をしたものですから、全く別の、二つのグループのように調査が始まり、列福が始まり、列聖が行われましたという話です。二十六聖人が列聖されたのが1862年です。開国されて隠れキリシタンが世に知られるようになった時に、時の教皇ピオ9世が日本を励ますために列聖をなさったという事です。
考えてみますと……。今日はちょっと違う話をしたんですけど、フランシスコ会の宣教師たちというのはどういう方々だったか。イエズス会の私が解説するのもどうかと思うのですけれども。実は、フィリピン・ルソンから来られた方々です。彼らはスペイン系の修道士たちでした。ところが、この人たちが、では、その元を正せば、どこから来たのかといえば、メキシコから来ています。当時のメキシコはもちろんスペイン領ですね。それで、私たちがフランシスコ会といったら、現在の「O.F.M」、すなわち、世田谷区瀬田にあるフランシスコ会のことやコンヴェンツァル会(コルベ神父で有名な会)を思い浮かべがちですけれども、実は、この時に日本にやって来たフランシスコ会の修道士たちは、実は「洗足派」、すなわち「裸足派」、靴を履かない派でした。フランシスコ会のなかでも、超厳格派でした。イエスの福音を、イエスの受難を単刀直入に示す、フランシスコの示した極貧をそのまま実行するという方々でした。南蛮屏風がたくさん書かれましたけれども、南蛮屏風に時々フランシスコ会の宣教師の姿が画かれているのを見ると、みんなはだしで描かれています。それで、この超厳格派の人たちは、イエスの受難、苦しみ、殉教、そういうものを宣教の中心にする人たちでした。そうした人たちは、日本で1587年に追放令を出された、迫害が始まるぞと聞いた途端に、「よし、私たちは殉教に行こう」と思ったようです。そして、長崎の町で、着いたとたんに彼らは、たどたどしい日本語で説教し始めるのですね。イエスの受難を。こういう人たちでした。
一方、イエズス会はどこから来たかといいますと、メキシコ経由ではありません。逆の方から、すなわちアフリカを回って、インドから中国の横を通り抜けてきました。ということは、イエズス会は何を考えているかというと、イエスの受難とか、十字架とか、単刀直入に見せてしまうと皆が嫌がるもの、怖がるものを少しトーンダウンさせて、つまりヨーロッパや南米でごく自然に示すイエスの受難の姿ではなく、各地の文化に合わせながら、日本文化に合わせながら、イエス・キリストを時間を掛けてゆっくりと伝えていきましょうというのがイエズス会の方針だったんです。これを「順応」方針といいます。それと、この南米から来た人たちは、もうすべてがキリスト教を受け入れる土壌でしたから、何の抵抗もなくイエスの受難を受け入れます。50年間、イエズス会が順応ということを考えながら、ゆっくりやっていたことに対して、フランシスコ会は「それでは生ぬるい」と言ったんです。そんなんじゃ駄目だ。イエスの本当の十字架の苦しみ、福音は、そんなんじゃ伝わりませんよというのが、フランシスコ会の人たちのイエズス会に対する批判でした。イエズス会もいろいろと反論しました。日本の文化を深く知らないと、この人たちの心の中に、本当のキリスト教は入らないのだと。どちらがどちらだとは言いませんが、ここにイエス・キリストを宣教する方法の大きな違いが示されているといえます。
こういう宣教の違いというものがハッキリあったのが16世紀でした。考えてみたら、今の現代社会でも同じようなことが行われています。キリスト教の本当にラディカルな(過激な)部分を少し抑えてでも、人々に理解され易く宣教しようとする人々と、いや、「十字架」を、「殉教」を真っ正面から説くんだという人と、二つに分かれます。二十六聖人の殉教事件というのは、一つの見方としてそういうことが言えるんじゃないかと思っています。日本の中での、キリスト教をどう人々に伝えるかということの根本的な違いを表した事件でもありました。皆さんはどちらを選びますか? 錦糸町の駅前で十字架の苦難を、そして救いを説きますか? 十字架のあがないを説きますか? それとも、教会の聖書研究会に行って、よく分かんないんだけれども、ゆっくりカテキズムを聞きながら、イエス・キリストについて学びますか? ……どちらかがよいというのではありません。その方法はお任せします。キリスト教というのは、そういうふうに、本当にラディカルな伝え方が可能だという面を持っています。もしも、キリスト教とこの世の対比を本当に本気で人々に伝えようと思ったら、必ず波が立ちます。嫌悪されます。そんなんじゃ駄目だといわれますけれども、それでも、手を変え、品を変え、宣教師たちは一生懸命に頑張って、人々の理解にあう仕方で自分たちの道を選んでいったということです。その事を考えながら、私たちもこれからこの日本の中でキリスト教を伝えることを考えなければならないと思います。我々、一人ひとりが宣教師ですから。伝える時に、どうするか考えたいと思います。そしてそのあとで、あの理想的な人は一体どういう生き方、どういう精神で生きているのか? キリスト者は、イエスの愛と、そのための信仰を身をもって行動で示すべきでしょう。あの人は立派な方で、何か話しが聞きたいと思っていた、そうしたら、教会に通っていることがわかった。そういう態度が理想的な方法だと思います。それではなまぬるい、駄目だという人もいるんですね。……どのようにふるまうかはみなさんにお任せします。 最後に、今日は私たちの、二十六聖人のなかで、イエズス会のパウロ三木が残した言葉を、最後に読み上げます。ここに示された言葉は、当時の宣教師たちの思いを見事に表明したものと思えるからです。日本の福音宣教を真剣に考える人の思いも同時に代弁している言葉です。
聖パウロ三木は十字架の上からこう説教しました。
『皆の衆、お聞き願いまする。わたしはルソン人ではござらぬ。れっきとした日本人でござる。そして、イエズス会の修道士でございまする。わたしは何の罪を犯したわけではござりませぬ。切支丹の教えを広めたという理由だけで殺されまする。この理由で殺されるのをわたしは喜んでおり、デウスさまから与えられるこのお恵みを感謝申し上げまする。死に臨んでわたしが偽りを申さぬことを信じてくださいませ。切支丹の教えによるほか、救いの道はござらぬことを確信して申し上げまする。この死罪について太閤さまはじめ、お役人衆に何の恨みも抱いておりませぬ。切に願いまするのは、太閤さまをはじめ、日本の皆の衆が、切支丹におなりなさって、救いを受けなさることでございまする。』

それでは、ご一緒に、私たちの信仰を宣言いたしましょう。