●「日本二十六聖人殉教者祭」がタルチシオ菊地功大司教をお迎えして執り行われました

本年の日本二十六聖人・殉教者祭は、二十六聖人の祝日に最も近い2月3日、主司式にタルチシオ菊地功東京大司教を招き、フランシスコ会のマリオ・T・カンドゥチ師、主任司祭のイグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男師と共に午前9時半から殉教者ミサが捧げられました。

今年のミサでは、久しぶりにラテン語のミサ曲(四賛歌と信仰宣言)を使用しました。それは、26聖人との繋がりのひとつであるラテン語を用いることで、トマス小崎やルドビコ茨木らを始め、ラテン語を使用していた当時の信者たちの気持ちに少しでも合わせられたらということもありました。

ミサ説教に入ると、その冒頭、菊地大司教は、本所教会に来るのは40年振りだと話し始められました。
実は名古屋の小神学校時代に、当時の本所教会主任司祭・下山正義師から様々な支援が小神学校にされていたこともあり、その頃は小神学生全員で毎年の様に二十六聖人祭に参加されていたとのことでした。

                       
                      右手で立ってサックスを吹いているのが、当時の菊地大司教です。
                     (「司教の日記」 http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/ より)


続く説教では、
「26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きることはその命を失う以上に価値があることなのだという確信を殉教において証をしました。その殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなくて、勇気を持って最後まで生き抜いたその生きる姿にこそ、その生きる姿の中における証にこそ重要な意味があるのだと思います。」と話され、教皇ベネディクト16世の回勅『希望による救い』の中から『人とともに人のために苦しむこと、真理と正義のために苦しむこと、愛ゆえに真の意味で愛する人となるために苦しむこと、これこそが人間であることの根本的な構成要因である。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすのだ』を引用し、殉教者たちが、その生きる姿を通して、ベネディクト16世が言われたことを明確に表現した存在であったと話されました。
そして、私たちに「殉教者たちの模範にならって、神の与えられた使命を生き抜く勇気を願い祈りたいと思います。この世の大切にしている価値観に流されることなく、神から与えられた賜物である命を徹底的に守り、互いに助け合い、互いに支え合い、勇気を持ってイエス・キリストの福音を証をし、神の国がこの世に実現するために歩みを共にしていきたいと思います。」と話されました(説教の全文は、次に掲載してあります)

●「日本二十六聖人殉教者 ミサ」 主司式・説教 タルチシオ菊地功東京大司教

説教

 『人間はいったい何のために生きるのか』
 1597年2月5日、長崎の西坂の地で、信仰を守り抜き、そのいのちを神にささげた26人は、この問いかけに対する答えを、その生涯の言葉と行いを通じて、多くの人に対して証しいたしました。
 『人間はいったい何のために生きるのか』
 26人の聖なる殉教者たちは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という、ガラテヤの教会にあてられたパウロの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。
 26人の聖なる殉教者たちは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という、マタイ福音書に記されたイエスの言葉を、その人生をもって生き抜き、証しいたしました。
 26人の聖なる殉教者たちは、信仰に生きるということは、そのいのちを失うこと以上に価値のあることなのだという確信を、殉教において証しいたしました。しかしその殉教に価値があるのは、勇気を持って死んでいったからだけではなく、わたしには、勇気を持って最後まで生き抜いた、その生きる姿にこそ、重要な証しの意味があるのだと思います。
 26人の聖なる殉教者たちは、「人間はいったい何のために生きるのか」という問いに、明確な答えを残して、そのいのちを生き抜かれました。聖なる殉教者たちは、現代を生きるわたしたちに、人生においてどのように福音を生き抜くのか、その模範を残されました。
 『人間はいったい何のために生きるのか』
 この問いかけは、聖なる殉教者たちが生きた時代から400年以上たったいまを生きる私たちにとっても、切実な問いかけになっています。
 2015年のことでした。わたしの故郷でもある岩手県で、中学生の男の子が鉄道に身を投げて自殺をするという、痛ましい事件がありました。学校でのいじめが原因だったと報道されています。様々な報道が飛び交いましたが、その中の一つに、わたしがニュースでたまたま目にしたのですが、亡くなられた中学生のお祖父さまがインタビューでこう言っておられたのが、耳に残っています。
 『あの子は、心が優しい子だったからこうなったのだ』
 心が優しい子どもが、いじめられ、自ら生命を絶つまで追い詰められてしまう社会とは、いったいどういう社会に私たちは生きているのでしょう。心が優しい人は、他人を大切にし、生命を大切にしようとする人ではないでしょうか。その優しい心の持ち主が生きることが出来ない社会とは、いったい何を大切にし、何のために生きている社会なのでしょうか。
 2016年の7月には、相模原の障害者の施設で、19名の障がいと共に生きている方々が殺害されるという事件がありました。犯人の青年は、社会の役に立たない者を殺すことは社会に貢献することだ、などという発言をし、それに賛同する声まで聞かれました。
 人間のいのちは、社会の役に立つのか立たないのかで価値が決まるのだと、考える人たちが少なからずいるのだと言うことが明らかになりました。
 私たちの信仰はこう教えています。
 創世記の冒頭、天地創造の物語の一節に、神がご自分の似姿として最初の人間を創造されたあと、そう言われたと記されています。
 わたしたちのいのちは、神の似姿として創造されたことでその尊厳を与えられました。だからこそ、すべてのいのちは、大切です、すべてのいのちには価値があります。存在しているだけで、価値があります。
 さらに創世記には、「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助けるものを創ろう」とあります。
 私たちは、「互いに助けるもの」として、この世に生命を受けたのだと私たちの信仰は教えています。そしてその生命は、神の似姿として限りない尊厳を与えられた存在です。
 そうであれば私たちは、「彼に合う助けるもの」として創造された他の人の存在を無視して、自分自身のことだけを考えていては生きていけないのです。
 お互いを大切にすること、優しくすること、助け合うこと、愛し合うことは、それぞれの人の個人的な優しい性格に頼って成立しているのではありません。それはまさしく人間であることの根本的使命として、神から与えられた存在の理由として、私たちは互いに大切にし合い、優しくし合い、助け合い、愛し合うのです。極端な言い方をすれば、そうしなければ人間ではないのです。
 現代社会は一体何を最優先にさせて歴史の道を歩んでいるのでしょうか。現代社会にあってもっとも守るべき価値観はなんだとされているのでしょうか。あまりにも世俗化しすぎた現代社会に対して、殉教者たちはすべてを投げ打ってでさえも守るべき大切なものは、今の世界が大切にしている価値観ではないことを私たちに教えています。
 教皇ベネディクト16世は回勅『希望による救い』の中で、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。  殉教者たちは、その人生を通じて、その生きる姿を通して、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に表現したのです。
 『人間はいったい何のために生きるのか』
 殉教者たちは、この問いに人生のすべてをもって応える道を選択した、勇気ある証し人たちです。その生命を賭して、神から与えられた『互いに助け合う者』としての使命を生き抜いた方々です。今の時代を生きる私たちに、神が望まれる世界を造り出すために、勇気を持って証しの道を歩み続けるようにと、励ましを与えてくださる存在です。殉教者たちの模範に倣って、神の使命を生き抜く勇気を願い祈りましょう。この世の価値観に流されることなく、神が与えられた賜物である命を徹底的に守り、互いに助け合い、支え合って、勇気を持ってイエス・キリストの福音を証しする者となりましょう。
 わたしたちの先頭に立っているのは、信仰を勇気を持って生き抜いた殉教者たちであります。日本の教会は、殉教者に導かれる教会です。恐れることなく、付き従ってまいりましょう。