第9代 カトリック本所教会主任司祭
酒井 俊雄 神父の主日のお説教集

(2010年2月21日から2011年4月17日まで)

 






受難の主日(枝の主日) 説教
2011年4月17日・酒井 俊雄師


 ただ今マタイ福音書をとおして、イエスの十字架の死について読まれました。イエスは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)(マタイ27:46b)と、叫ばれたと記されています。この十字架上でイエスは、二つの大きな誘惑を受けられたのではないかと思います。一つは人々にたいして、もう一つは神に対してです。
 3年間労苦を共にした弟子たちは、イエスが捕らえられたとき、みな逃げてしまったのです(マルコ14:50)。イエスが入城したとき「ホザナ、ホザナ」(マタイ21:9b)と言って歓迎した群衆は、今度は「十字架につけろ、十字架につけろ」(ルカ23:21)と叫んだのです。またピラトは、イエスが無罪であることを知りながら、自分の保身のために十字架につけたのです。弟子たちを愛し、人々を愛し続けたイエスは、弟子からも、群集からも、政治的権力者からも見捨てられて、十字架につけられたのです。このような人々を最後まで愛せるかどうかという誘惑です。これに対してイエスは、自分を十字架につけた人々のために「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈っています。
 またゲッセマネの園でこれから受ける受難と死を思い、苦しみもだえて血のような汗を流して「父よ、御心ならこの杯を取りのけて下さい」(ルカ22:42a)と祈ったにもかかわらず、十字架の死に追いやられた神に対して、最後まで信頼できるのかどうかという誘惑です。これに対してイエスは亡くなられる直前に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ22:46)と言って息を引き取られたのです。
 このようにイエスは、十字架上で受けた二つの誘惑に対して、最後まで人々を愛し、父なる神を信頼したと言ってもよいと思います。だからこそ、それを見た百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ22:47)と言って神を賛美したのです。パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、キリストは「死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」(2:8)と言っています。私たちもこのイエスの生き方にならい、最後まで人々を愛し、神に信頼していきたいものです。
 

ページのトップに戻る


四旬節第5主日(A年) 説教
2011年4月10日・酒井 俊雄師


 本日読まれました福音は、ラザロのよみがえりのエピソードが記されています。イエスさまは、この話をとおして私たちに、イエスが復活であり命であるということを啓示されました。イエスはこの中で「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11・25b−26a)とおっしゃっています。復活であるとは死の克服を意味します。ですからイエスが生命であるということは、死の克服する力のある生命であるということです。このことを、ラザロのよみがえりによって証明されたのです。ここでは、死が生物としての人間の死ではなく、霊的な死について述べられています。そしてキリストの生命によって生かされることが、永遠に生きる道であるということが強調されています。ですからパウロは書簡の中で「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。イエスを死者の中から復活させたかたの霊があなたがたのうちに住んでおられるならキリスト・イエスを死者のうちから復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体も生かしてくださるでしょう」(ロマ8・10−11)と言っているのです。
イエスがマルタに「あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11・26b)といったとき、マルタは「はい主よ、あなたが世に来られる神の子、メシアであることをわたしは信じています」(ヨハネ11・27)と、こたえています。このようにイエスが復活であり、生命であるということを信じることは、イエスが主であり、神の子であり、世に来るべきキリスト(救い主)であるということを信じることなのです。
 ヨハネの17章には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3)いわれています。この知るということは、単に知識として知るということではなく、信じること、また知ることによって、私たちの生き方に変化をもたらすことを意味します。イエスさまは「昼のうち歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」(ヨハネ11・9b)と、いって、自分が「世の光」であること、また光としてキリストを信じる人の心の中にとどまり、キリスト者はそれによって、つまずくことがないということを教えてくださいました。わたしたちもマルタのように、イエスに向かって「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じます」(ヨハネ11・27b)と信仰告白し、世の光であるイエスに照らされて、光の子らしく生きたいものです。
 四旬節にあたって私たちはもう一度自分の生き方をかえりみて、私たちの心が神へ、隣人へ開かれているかどうかを反省したいものです。そしてイエスが「ラザロ出てきなさい」(ヨハネ11・43)と大声で叫ばれたとき、ラザロが墓から出てきたように、わたしたちもイエスの声に素直に聞き従うことによって、「世の光であるキリストに照らされて、光の子としての生活」(ヨハネ8・12、エフェソ5・8b)が出来るように力と勇気が与えられるようになりたいものです。
 

ページのトップに戻る


四旬節第3主日(A年) 説教
2011年3月27日・酒井 俊雄師



 本日のヨハネ福音は、イエスとサマリアの女の人の話です。聖書を読みますと、イエスさまはたびたび自分のほうから声を掛けることによって、その人との関わりを持つことが記されています。ルカ福音書19章に出てくるザアカイの場合にも、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい」(19:5)と声をかけています。その結果ザアカイの生き方が変わり、救われたのです。
 今日の福音でも、井戸に水をくみに来たサマリアの女にイエスは、「水を飲ませて下さい」(4:10b)と声をかけています。声をかけられた女性は最初驚いてしまいます。その理由は、1)イエスはユダヤ人で、女性はサマリア人だからです。ヨハネは、ユダヤ人とサマリア人とは交際しないからであると記しています。 2)またイエスは男性で、この人は女性だからです。当時のユダヤでは、道で男性が女性に声をかけることは、恥ずかしい行為と考えられていたからです。 3)更にこの女性は、あまり褒められる女性ではなかったからです。このことは、この女性が正午ごろ水を汲みにきたことで分かります。当時のユダヤでは、水汲みは女性の仕事でしたが、それは一日の始まる夕方行われました。日が沈み涼しくなると、始めて人々は働きだし、最初にすることが水汲みでした。ですから夕方には、井戸に多くの女性が集まり、井戸端会議が行われたのです。この女性は皆から白い目で見られ、非難されることを恐れて、だれもいない正午ごろ、こっそり水を汲に来たのです。
しかし、イエスさまから声をかけられることをきっかけになり、対話が始まったのです。その結果、彼女はイエスを「あなたは預言者だとお見受けします」(4:19b)と言い、更にイエスこそキリストではないかと、考えるようになったのです。そのことによって彼女の生き方が変わってきます。今までは、人目を恐れ、非難されることを恐れ、こそこそと生活していた彼女が、イエスをキリストと信じるようになると、もう人の目を恐れることなく町に戻り「人々に、さあ見に来てください、わたしが行ったことを全て言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29)といって、人々に証しをするのです。そしてその結果「その町の多くのサマリア人はイエスを信じた」(4:39a)のです。
 このようにイエスに出会い、神の愛を知ることによって、私たちも生き方が変えられるのです。もう何事も恐れることなく、いつも喜びを持って生きていくことが出来るようになるのです。そのためには日ごろからイエスの呼びかけに耳を傾け、イエスに生かされていくことが大切なのです。イエスさまは今日も聖書をとおして語りかけ、聖体をもって私たちを養ってくださるのです。この信仰を新たにし、今日もイエスによって強められたいものです。
 

ページのトップに戻る


四旬節第2主日(A年) 説教
2011年3月20日・酒井 俊雄師



 本日読まれましたマタイ福音書の箇所は「ご変容」といわれている箇所です。この箇所はイエスがまだ弱く無理解な弟子たち、自分の立身出世を望んで、だれが一番偉いかと争っていた弟子たちに、ご自分が十字架の苦難と死をとおして、栄光に入られるメシアであるということを、前もって示した箇所です。
 イエスの姿が変わり、服が真っ白に輝いたとき、モ―セとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたと記されています。ルカ福音書の平行箇所を見ますと、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)といわれています。モ―セは律法の代表者で、エリヤは預言者の代表者です。そして「律法と預言者」は、旧約聖書全体を表す表現です。ですからこの箇所は、イエスの受難と、栄光は旧約聖書に預言されていたことの成就であり、イエスこそメシアであるということを表しています。
 さらに「これはわたしの愛する子、これに聞け」(マタイ17:5b)という声がして、モ―セとエリヤは退場して、イエスだけが残ったといわれています。このことは旧約時代が終わり、イエスによる新しい時代(新約)が始まったことをしめしています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ17:5b)という言葉は、詩篇の2編とイザヤの42章からとられた言葉で、イエスが洗者ヨハネから洗礼を受けられたときにも、天からあった言葉で、イエスこそメシアであるということを示しています。そして「これに聞け」と言われていることは、新約時代に生きている私たちは、イエスに聞き従っていかなければならない、ということを表しているのです。
 パウロはフィリピ人の手紙の中で「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにみられるものです」(2:3−5)と言っています。とかく自己中心的な考えになりがちな私たちが、自分の殻を破って「共に生きていく」という生き方になるためには、いつもイエスに聞くこと、聖書に親しみ、イエスの言行を思い巡らすことが必要なのではないでしょうか。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とおっしゃって、私たちのために十字架上で死んでくださった、イエスを見つめながら歩んでいくことが大切なのです。
 この四旬節中、特に十字架のイエスを黙想し、神が私たちをどれほど愛してくださったかを思い、私たちもこの神の愛に応えていくことができるようになりたいものです。

ページのトップに戻る



四旬節第1主日(A年) 説教
2011年3月13日・酒井 俊雄師


 本日読まれましたマタイの福音書には、イエスさまが公生活を始めるにあたって荒野に退いて40日間断食し、祈られたということが記されています。旧約ではモ―セやエリヤ、新約ではパウロなどの信仰の指導者たちが、神から新しい任務を受けて、これから公の生活に出て行こうというとき、荒野に退いて祈り、そこから新しい出発をしたということは、大変意義深いことだと思います。
 私たちは毎日忙しい生活を送っています。忙しいという字は「りっしんべん」に亡びると書きます、また亡びるという字のしたに、心をつけると、忘れるという字になります。すなはち、忙しいと私たちは、とかく忙しさに追われて、自分の心が亡びてしまう、自分を忘れてしまうからです。ふだん忙しい毎日を送っているからこそ、私たちは特にこの四旬節の期間に静かに自分の生き方を反省したいものです。
 さてイエスさまは40日間荒野で、祈りと断食をし、「試み」を通して、自分の生き方の根本的な選択と、自からの運命を受諾する決断をしました。イエスさまはこの荒野で「石をパンにする」「高い所から飛び降りてみる」「世の栄華を手に入れる」という三つの誘惑を受けたと記されています。そこでこの三つの誘惑の意味について、考えてみたいと思います。
 第一の「石をパンに変える」という誘惑は、神から与えられた力(才能)を自分のために使おうとする誘惑です。しかしイエスさまはこれを拒まれました。イエスさまの生涯を見ますと、決して自分のために奇跡を行わなかったことがわかります。イエスさまが奇跡を行ったのは、いつも人が困り苦しんでいる時です。私たちも自分の才能を自分のためだけに使うのではなく、人のため、社会のために使いたいものです。
 第二の「高い所から飛び降りてみる」という誘惑は、人々を驚かせ自分が人々から注目されたい、名声を得たいという誘惑です。しかしイエスさまは、これも拒まれました。私たちも自分の行いが、人から良く思われたいということではなく、人々を神に導くことが出来るようにしたいものです。同時にこの「試み」をとおして、神への絶対的な信頼が強調されています。私たちは神の言葉を、自分の都合のよいように割り引きしたり、増やしたりして解釈しがちです。しかしそれでは神の望みを行うのではなく、自分たちの望みを、神に押し付けることになってしまいます。私たちは素直に、神の言葉に耳を傾けたいものです。
 第三の「世の栄華を手に入れる」という誘惑は、富や権力を絶対化しようとする誘惑です。悪魔は「もしわたしをひれ伏して拝むなら、これらをみな与えようと言っています、「ひれ伏して拝む」という動作は、神に対してなされる態度です。神以外のものを神とする、富や権力を神(絶対)とする態度です。イエスさまはこれをきびしく否定します、私たちもイエスさまにならい、「ただ主のみに仕える」ことが出来るようになりたいものです。
 イエスさまがこの三つの誘惑をとうして選んだ道は、「苦難の僕」として私たちの犠牲となり、神のみを信頼して生きる道でした。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:43b−45)と言っています。私たちもこの四旬節中、特にイエスの生き方を見つめ、イエスに倣って神に信頼し、神の御言葉に素直に従って行きたいものです。

ページのトップに戻る


年間第8主日(A年)説教
2011年2月27日・酒井 俊雄師


 本日の第一朗読でイザヤの預言がよまれました。イザヤという預言者はBC(紀元前[キリスト降誕前])8世紀の人で、この時代はアッシリアの国が方々の国に侵略し、勢力を拡大していた時代です。シリアを侵略し、北イスラエルを滅ぼし、南のユダ王国に攻めて来たのです。その時王を始め、皆慌てふためいてエジプトに助けを求めようとします。その時イザヤは「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30:15)と言って、信仰ということは、静かにしていることだと教えていたのです。その根底にある確信が、今日読まれた箇所です。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないことがあろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることはしてない」(49:14−15)と言って、どんなに絶望的な状況にあっても、神さまは決して見捨てることはないという信仰です。この信仰があれば、私たちはなにも思い悩むことはないのです。
 今日の福音でイエスさまは「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。……あなたがたの天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:25b、32b)と教えられました。私たちは神がいつも私たちを愛し、支えていてくださると言う信仰を持つことが大切なのです。しかし、私たちはつい明日のことを思い煩い、自分の力で何とかしようとして、自分の力に頼り、神に対する信頼を忘れてしまうのではないでしょうか。その結果、富に頼り、富に仕えることになってしまうのだと思います。このような私たちに今日イエスさまは「だれも、二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と教えられたのです。
 今日イザヤのように、神は、女が自分の乳飲み子を忘れないように、神はどのような状況であっても私たちを忘れることは無い、いつも私たちを見守り、支えていてくださるという信仰を新たにしたいものです。

ページのトップに戻る


年間第7主日(A年)説教
2011年2月20日・酒井 俊雄師


 本日読まれましたマタイの福音書で、イエスさまは「(天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45b)方であると教えてくださいました。この言葉を聞いた当時のユダヤ教の指導者たちは、大変驚いたことだと思います。いやむしろ怒ったことでしょう。ユダヤ教の指導者(ラビ)から見れば、律法を厳守しえない者は悪人であり、正しくない者で呪われた存在で、「律法を知らないこの群集は、呪われている」(ヨハネ7:49)と言っていました。特にファリサイ派(律法をいちばんきびしく守る派)の人々は、律方を守れば当然の報いとして、天国が得られると考え、一般人を無知な俗人(地の民)と言って軽蔑しており、自分たちはファリサイ(分離者)派といって、エリ―ト意識を持っていたのです。彼らは父なる神を善人には太陽を昇らせ、正しい者には雨を降らしてくださるけれども、悪人には太陽を昇らせない、正しくない者には雨を降らせてくださらない方だと考えていたのです。そして自分たちは律法を守り、倫理的に正しく、宗教的に熱心であることを誇り、徴税人や罪人たちを、神から見捨てられた人、駄目な人として見下していたのです。
 しかしイエスさまが教えて下さった父なる神は、人を決して差別なさらず、全てに人一人ひとりを愛し大切にしてくださる方なのだということを、言葉と行い(全生涯)をとおして私たちに教えてくださったのです。特に見失った羊のたとえで、100匹のうち1匹がいなくなると、99匹を残して探し歩く羊飼い、そして見つけると喜んで担いで帰る、羊飼いの姿をとおして教えてくださいました。私たちが弱い無力な者であっても、駄目な者であっても、父なる神は決してお見捨てにならず、暖かい慈しみの眼差しで見守り、ご自分に立ち帰るのを待っておられる方なのだ、ということを教えてくださったのです。これがイエスのもたらした福音なのです。そして私たちはこのように父なる神から愛され、支えられているのだから、神から愛された者同士として、互いに愛し合うように呼びかけられているのです。
 そしてこのことを理解することが、キリスト教を理解することの鍵だと思います。私たちはともすると善人は○、あくにんは×、と決め付け、神の愛を忘れてしまいがちですが、今日のイエスさまの言葉をもう一度かみしめなければならないと思います。そして今日の福音で教えられた「復讐をしてはならない」、「敵を愛しなさい」という勧めも、このような観点からもう一度見直すことが必要ではないかと思います。


ページのトップに戻る


年間第6主日(A年)説教
2011年2月13日・酒井 俊雄師


 先日、ひろさちや氏の「仏教的人生論」という本を読みました。その中に「戒」の本当の意味について「仏教の戒の意味はそれを守ることにあるのではない……。大乗仏教における戒の本当の意味は、それを守ろうとしても守りえない、人間の弱さを発見することにある。自分が弱い不完全な人間であることを、しっかり認識して仏に赦しをこうのである。それが戒の意味だ。私たちが自分自身の弱さをしっかり認識すれば、必ず他人の弱さを赦せるようになる。自分が不完全な人間であることを知れば、他人もまた不完全な人間であることを許容できるだろう。そのために戒があるのである」。
 「しかし、戒は破るためにあるといっても、では戒を守ろうと努力することは無用かといえばそれは違う。我々はやはり戒を守ろうと努力せねばならない……ではどうすべきか……実は戒を破る必要性を少なくするように努力するのだ。それが大乗仏教の戒の意味だ。例えば不妄語戒(嘘をつかない)で考えてみると、嘘をつくまい、つくまいと努力していると、我々は他人がついた嘘をなかなか赦せなくなる。自分は嘘をつかぬように努力しているのに、あの人は平気で嘘をつくと考えてしまう。それではいけない、私たちが目指すべきことは、嘘をつく必要が無くなるように心がけることだ。人との約束を破ってしまうと、どうしても嘘をついて弁明、釈明せざるを得なくなる。だから嘘をつく必要を作らないために、人との約束を破らないようにすることだ」と言っています。
 引用がだいぶ長くなってしまいましたが、私たちがマタイの5〜7章を読むときに、このような心がけが必要なのではないでしょうか。「兄弟に腹を立てるものはだれでも裁きを受ける」(5:22b)とか「みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。……もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取ってしまいなさい」(5:28b−29a、30a)等と言われると、私たちは皆、盲目のだるまになってしまうのではないでしょうか。そうではなく、兄弟を大切にしようとか、女性は決して情欲の対象なのではなく、対等なパ―トナ―であるというように、積極的に考えていかなければならないのだと思います。
 パウロは「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12a)、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても、借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。姦淫するな、殺すな、盗むな、むさほるな」(ロ―マ13:8−9a)そのほかどんな掟であっても「隣人を自分のように愛しなさい」(ロ―マ13:9b)という言葉に要約さらます。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです」(ロ―マ13:10)と言っています。私たちはイエスの教えを、律法的に捉えるのではなく、その中に流れている精神を、汲み取るようにしなければなりません。そして、イエスが私たちを愛し、私たちのために死んでくださったように、私たちも自分さえ良ければというのではなく、隣人を大切にして「共に生きる」という生き方を、大切にしなければならないのだとおもいます。


ページのトップに戻る



年間第5主日(A年)説教
2011年2月
日・酒井 俊雄師


 今日の福音でイエスさまは「あなたがたは地の塩である」(5:13a)、「あなたがたは世の光である」(5:14a)とおっしゃっています。イエスさまは私たちに「地の塩」、「世の光」になれと言っているのではなく、イエス・キリストに従っている人は「地の塩」、「世の光」であると言われたのです。塩は聖書では良いものとされています。「塩はよいものである」(マルコ9:50)といわれています。また塩は私たちの生命になくてはならないものです。
 昔、生物の時間に、先生が軍隊での体験をはなしてくれたことがあります。馬に栄養をかんがえた食料を与え、水も充分に飲ませているのに、馬が病気になり倒れていくのだそうです。なぜかわからなかったのですが、馬たちが互いに相手のうまの汗をなめあっているのに気付き、塩分が不足していることに気が付いたそうです。このように塩は私たちの生命になくてはならないもの、大切なものです。また、コロサイの信徒への手紙の中で「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(4:6)と言われています。この言葉はキリストを宣教することの関連で用いられています。
 また「世の光」についてはヨハネ福音書でイエスさまご自身「わたしは世の光である」(8:12b)とおっしゃっています。このようにイエス自身が「世の光」であり、その光が、イエスに従って生きる人々にも点じられ、「世の光」といわれるのです。こうしてみますと「地の塩」、「世の光」であるということは、倫理的なことではなくイエス・キリストに従って生きる人は、世の人々にイエス・キリストをよいもの、大切なもの塩や光のようになくてはならないものとして証しする、そして人々をキリストに父なる神に導くものであるといわれているのです。ですから「人々はあなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるためである」(マタイ5・16b)と、いわれるのです。
 この「立派な(善い)行い」ということですが、ギリシャ語では「善い(立派な)」という語に二通りありアガトスとカイロスです。アガトスは性格が善い、善行をあらわしますが、カイロスは美しい、魅力的であるという言葉です。ここで使われている語はカイロスです。したがって「立派な(善い)行い」と言うのは単に「善行」ということではなく、「魅力的な行い」という意味です。いくら倫理的に正しくても、いつも苦虫をつぶしたような暗い顔をしていたのでは決して「魅力的」とはいえないでしょう。
 イエスさまは私たちに福音をもたらしました。福音とは「喜びの知らせ」ということです。ですからわたしおたちがまず喜びをもたなければ、人々に福音を伝えられないでしょう。私たちが明るく、希望と勇気と喜びをもつて生きることがたいせつなのです。そしてこのような生き方が人々に魅力的に見られ、人々を神に導くものとなるのです。「地の塩」「世の光」の意味を倫理のわくに閉じ込めてはなりません。キリスト教はけして倫理ではなく、なによりも私たちに喜びと希望と勇気を与えるものです。私たちは神の恵みと愛に支えられ、明るく生き生きと生活することができるようになりたいものです。


ページのトップに戻る


年間第3主日(A年)説教
2011年1月23日・酒井 俊雄師


 今日の福音には、イエスさまがいよいよ「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言って宣教を始められたことが記されています。この最初の言葉は洗;礼者ヨハネの言葉(マタイ3:2)とまったく同じですが、内容はかなり違っています。洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:7−8)と言っているように、私たちが自分の罪を認め、告白し、生活を改めることを求めたものですが、イエスの場合はマルコの平行箇所に「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝え「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(マルコ1:14−15)とあるように、神の福音をのべ伝えているものです。
 天の国(マルコでは神の国)とは、神の支配ということです。このことは旧約の神は王であるという思想と、神の名即ち「共にいる神」という二つの思想が結びついたもので、神は私たちと共にいて、私たちを教え導くということを表しています。また「神が王である」ということは神の支えなしには私たちは何事もなしえないということであり、「共にいる神」ということは、神がいつも私たちを見守っていてくださるということを表しています。ですから天の国とは、神様が本当の支えとしている人々の集まりということになります。
ある時イエスさまは子供を抱いて「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:14C−15)とおっしゃって、本当の支えを神のみに求める人には神が共にいるという、恵みが与えられることを教えてくださいました。ですから私たちは子供が親に絶対的な信頼をもっているように、自分のはからいを捨てて、神に絶対的な信頼を持つようにしなければなりません。私たちの存在の一番深いところで神さまが、がっちり支えていてくださっているという信頼を持たなければなりません。このことが悔い改めるということになるのです。
 今日の福音でもイエスさまに呼びかけられたペトロとアンデレは網を捨てて従ったことが記されています。またヤコブとヨハネの兄弟は「この二人もすぐに、舟と父親を残してイエスに従った」(マタイ4:22)といわれています。漁師にとって網や舟というものが、どのようなものであるかを考えれば、また父親がどのような存在であるかを考えれば、イエスに従うということが、どのようなことであるか分かると思います。自分たちにとって大切なもの、一番必要と思われるものであっても、イエスのために捨てるという決心が、求められているのだと思います。このように福音が力となり、解放となるためには、神の恵みとともに本人の決断が必要なのです。今日「悔い改めよ、天国は近づいた」というイエスさまの呼びかけを聞いた私たちは、弟子たちが網や舟を残してイエスさまに従ったように、自分の殻を破ってイエスさまが示す方向に、一歩踏み出さなければなりません。「天の国は来ている」というイエスさまの呼びかけに、私たちはどのように応えているかを、もう一度真剣に反省したいものです。


ページのトップに戻る


年間第2主日(A年)説教
2011年1月16日・酒井 俊雄師


 本日読まれましたヨハネの福音書において、洗礼者ヨハネはイエスさまが歩いてこられるのを見て、弟子たちに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29b)と言ってイエスに対する力強い証言をしています。
この「神の小羊」という思想は、イザヤ書53章に出てくる主の僕(苦難の僕)と、過ぎ越しの小羊という、旧約の相異なる二つの概念を背景としています。
まず、イザヤ書53章にはその民の罪を贖うために死ぬ主の僕について、「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(53:7)と言って、人々の罪を身に負って苦しめられ、そして屠所に引かれていく小羊に当てはめています。また過越の小羊については、神が、昔エジプト人の圧政下で奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を解放しようとしたとき、家ごとに「傷のない一歳の雄の小羊を一匹ずつ屠り、夜それを食べてその血を家の戸口の柱とかもいに塗るように命じられ、そのしるしのおかげでイスラエルの民は神の恐るべき滅びの手から救われ、エジプトから解放されたのです」(出エジプト12:1−26)
 このように「神の小羊」は、旧約の贖罪と解放に関する思想と関連しており、これら全てがイエスの従順さと、十字架の死の持つ贖罪的効果の説明に用いられ、罪のない神の子の血が、人類全体の罪を贖ったという信仰を表したものです。洗礼者ヨハネの使命は、キリストを証しすることでした。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ1:8)彼は、メシア(キリスト)の先駆者として、人々に待望の救いの時が到来したことを告げ、改心を勧めて「悔い改めの洗礼」を授けていました。
 このヨハネは旧約最後の預言者です。預言者とは神の代弁者として神から遣わされ、神から伝えられたことを、そのまま語るために特に召された人です。預言は自分自身のものではなく、神からのものであり大衆受けするものではありません。そればかりか預言者の多くは、悲劇的最期を遂げています。この洗礼者ヨハネも、ヘロデ王とその妻ヘロデアの不道徳な行為をとがめたために投獄され、殺されてしまったのです。
 このように預言者たちは決して自分を宣伝したり、自分の都合の良いことを述べません。自分のためではなく、神のために、自分にとって都合の悪いことでも、あえて言わざるを得ないのです。ヨハネは弟子たちに、イエスを指し示すことは、弟子たちが自分のもとを去り、イエスの弟子になることを勧めることと、同じであるということを知っていたに相違ありません。それにもかかわらず、彼はそれをしたのです。ここにヨハネの素晴らしさがあります。私たちもこの洗礼者ヨハネように、自分にとって都合の悪いことでも、不利なことであっても、神のみ旨、神の国を第一にして生きていきたいものです。


ページのトップに戻る


主の洗礼(A年) 説教
2011年1月9日・酒井 俊雄師


 本日はイエスさまがヨルダン川で、洗者ヨハネから洗礼を授けられたことをお祝いする日です。マタイ福音書はこの出来事を「そのとき、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(3:13)としるしています。そしてこの後、イエスさまとヨハネの間で「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3:14)「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15b)という問答があり、「そこで、ヨハネはイエスの言われたとおりにした」(3:15c)と記しています。
 そこで今日は「主の洗礼」について考えてみたいと思います。イエスさまはなぜヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか、ヨハネは「わたしは悔い改めに導くためにあなたたちに水で洗礼を授けている」(マタイ3:11)と言っているように、ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼でした。それは自分の罪についてすまないと思っている者、それを棄てたいという決意を表明したい者のためでした。しかし、イエスさまこそ罪なき人で、ヨハネの洗礼を受ける必要のない方ではなかったのではないでしょうか ? イエスの洗礼はどのような意味を持っていたのでしょうか ?
 第一にそれは決意のときを表しています。マタイはこの出来事を、公生活の最初の行動として記しています。イエスは30年間ナザレに留まり、仕事に、家庭に対する勤めを果たしてきましたが、いよいよ父なる神のことを、人々に伝える決心をしたことを意味しています。
 第二にそれはイエスさまが、人々と同化されたときです。イエスはヨハネが説く、悔い改めの説教を承認し、その正しさを証しするために洗礼を受けられたのです(マタイ21:25)。たしかにイエスさまは、罪を悔い改める必要はありませんでした。しかしここに人々が神に立ち帰る運動があり、この神への復帰の運動に対して、イエスもその仲間であることを示す決意をされたのです。イエスは私たちと連帯し同一化されたのです。このときイエスさまは「罪びとの一人に数えられる」ことを受諾し、受けねばならない唯一の洗礼、即ち十字架の死を、自分自身の心に誓ったのではないでしょうか。このとき「苦しみの僕」としてのメシヤ像を選ばれたのだと思います。
 第三にそれは承認のときでもあります。マタイは「そのとき、これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)という声が、天から聞こえたと記しています。洗礼においてイエスさまは神に服従することを決意し、その決意を神が承認されたのです。今日の第二朗読・使徒たちの宣教では「神は聖霊と力によってこの方を油注がれたもの(メシア)となさいました」(使徒言行録10:38b)と言っています。
 このようにイエスの洗礼というエピソ―ドは、聖書の中で提示されている神の計画に従って、イエスに課せられたメシア(キリスト)としての果たすべき事柄を、私生活の最初から知らせることを目的にしています。イエスさまは洗者ヨハネから洗礼を受けるに際して決断を迫られたのです。そしてイエスさまは謙遜に罪びとの中に身を置き、洗礼を受けて自分のメシアとしてのあり方を「苦しみの僕」として決断し、選択をなさったのです。
 私たちも日常の生活の中で自分の生き方の方向を定め、進むべき道を選択しなければなりません。そのときの選択の基準としてイエスさまが父なる神から自分に課せられた使命に忠実に従ったように、私たちも神の意志を一番大切にしたいものです。そのためには、今年はよりいっそう聖書に親しみ、神のみ言葉に耳を傾けたいものです。



ページのトップに戻る


聖家族(A年) 説教
2010年12月26日・酒井 俊雄師


  エジプトのカイロの郊外に、オ―ルド・カイロと呼ばれている場所があり、そこにはコプト教の教会がたくさんあります。その中の一つに、アブ・セルガ教会があります。伝説によれば、マリアとヨゼフが幼いイエスを連れて、エジプトに逃れ落ち着いた先が、このアブ・セルガ教会のあった場所であったと言われています。現在、この教会の祭壇の脇に地下室があり、そこが聖家族の住んでいた所といわれています。私が行った時にはその中に入ることは出来ず、上から覗くだけでしたが、内部は暗く水が溜まっており、いかにも住み心地が悪そうな所でした。
 ではなぜヨゼフは、マリアと幼子イエスを連れて、エジプトまで来たのでしょうか。今日の福音には、主の天使が夢でヨゼフに現れ「起きて、子供と母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまでそこにとどまっていなさい」(マタイ2・13b)と告げ、ヨゼフは起きて夜のうちに、幼子とその母親を連れて、エジプトに去ったとしるされています。そして、へロデが死ぬと、再び主の天使がヨゼフに夢で現れ「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」(マタイ2・20a)とつげます。そこでヨゼフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰ってきたのです。
 このエピソ−ドからもわかるように、聖家族の生活は神に支えられ、導かれ、守られたものであり、ヨセフはこの神の導きに、従順であったことがわかります。ヨセフにとって母子を連れてのエジプトの旅は、大変辛く困難なものであったと思います。現代のように飛行機や車があるわけではなく、ろばに母子を乗せて、引いて行かなければならなかったことでしょう。しかも異国のエジプトで、どのような生活が待っているかもわからず、恐れと不安が一杯であったに違いありません。生まれたばかりの幼子を連れて、旅をするなど非常識であったことでしょう。しかしヨゼフは、自分の考えや世間の常識に従うのではなく、神の言葉を信じそれに従ったのです。ここにヨセフの信仰があります、聖家族はこのヨゼフの信仰に守られ、支えられていたのです。
今日聖家族に祝日にあたり、私たちもこのヨゼフの信仰を見習っていきたいものです。現代は大変忙しく、毎日を追われるように生活をしています、特にもうすぐ新しい年を迎える年の瀬は、仕事納めや大掃除、買い物などに追われ、何となく気ぜわしい日々を過ごしています。しかしこのような時だからこそ、少しでも静かな時間を持ちたいものです。そしてこの一年を、自分を振り返り、神の言葉に耳を傾けたいものです。私たちの生活が、このヨセフのように神の言葉に導かれ「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)と、イエスさまが教えられたように、神の言葉に従って歩んでいきたいものです。
 


ページのトップに戻る


待降節第4主日(A年)説教
2010年12月19日・酒井 俊雄師


  本日読まれましたマタイ福音書で、マリアが身ごもったことを知った「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)と記されています。当時のユダヤの社会では婚約することは、法的には結婚したと同じことになるので、まだ一緒になる前に身ごもったと言うことは、人間的に見れば姦淫の罪を犯したことになります。その時ヨセフがとる態度は三つ考えられます。 
 一つは罪を問わずにそのまま結婚することです、二つ目は裁判にかけて、白黒をはっきりさせることです。姦淫の罪は死刑でした(申命記22:23−24)ので、その時にはマリアは石殺しになったと思われます。三つ目は公にしないで離縁状を書いて別れることです。ヨセフは正しい人(律法に忠実な人)でしたので、どれ程マリアを愛していても、身重になったマリア(罪人と思われるマリア)とは婚礼を挙げることは出来ませんでした、しかし、愛するマリアを表沙汰にすることは望みませんでしたので、ヨセフが取る唯一の方法は離縁状を書いて、別れることだったのです。ですから彼は「ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。
 しかし主の天使が夢に現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1:20)と告げたとき、眠りから覚めたヨセフはすぐ「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」(マタイ1:24)のです。ここにヨセフの信仰があります。 人間的に見て赦せないことであっても、不条理なことであっても、それが神の御旨であることを知ったとき、彼は自分の人間的な考えを捨ててそれに従ったのです。この信仰はマリアにも見られるものです。ガブリエルがマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:33)と告げたとき、彼女は「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1:34)と不思議に思います。更にもし結婚する前に身ごもるならば、訴えられて石殺しにあうかもしれないし、また離縁されて子供を産むならば、父なし子を産んだ女として周りの人から白い目で見られ、罪人とされるかもしれないのです。しかしそれが自分にとって理解できないことでも、不利なことであってもそれが神の御旨であると悟ったとき「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように」(ルカ1:38)と言ってイエスの母親になることを引き受けたのです。
 イエスさまはこのような信仰者の間にお生まれになるのだということを今日の福音は私たちに告げています。私たちもこのヨセフやマリアのように、どのような困難や不都合なことがあっても、神に信頼し神に従って歩んでいくという信仰を持ちたいものです。そしてイエスの誕生はインマヌエル(神が我々とともにおられる)の実現であるといわれているように、今日も私たちと共にいて、私たちを支え導いてくださるキリストへの信仰をより強く持てるようになりたいものです。


ページのトップに戻る


待降節第3主日(A年)説教
2010年12月12日・酒井 俊雄師


  本日読まれましたマタイ福音書で、洗礼者ヨハネはイエスのもとに弟子を送って「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待かなければなりませんか」(11:3)と尋ねさせています。ヨハネは「私のあとから来る方は私よりも優れておられる……その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる」(マタイ3:11b)と言い、イエスが来られて洗礼を望まれたとき「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきです」(マタイ3:14b)と言ってイエスを証ししているので、この質問は奇妙な感じがします。イエスを「神の子と証した」(ヨハネ1:34)のになぜ改めて「来るべき方はあなたでしょうか」と質問したのでしょうか。
 このときヨハネは捕らわれの身で獄中生活を送っていたので、精神的にも肉体的にも疲れ果て、心が弱くなっていたのだと思われます。またヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:7−8)「その方は……手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3:12)と言っているように、イエスがメシヤとして悪人を裁く方だと考えていたようです。しかしイエスさまが裁こうとはせず、憐れみの業と福音宣教を行っているのを見て、確信と焦燥との間を行き来しつつ発した問いだったのだと思います。
 私たちも神を信じていながら、何をやってもうまくいかなかったり、様々な困難や災害に出会うとき、時々本当に神さまはいるのだろうか、神さまはなぜこのようなことをなさるのか等と疑問に思い悩むことがあります。
 それに対してイエスは「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言って、イエスの言行に目を向けるように勧めています。イエスはその生涯をとうして弱い者、小さい者に目を向け、大切にし、その人々を愛されたのです。そして私たちのために自分の命を捨てて十字架にかかってくださったのです。このイエスの姿を思い出すとき、私たちは神がどれほど私たちを愛し、大切にしてくださっているかを悟ることが出来るのです。
ヨハネの偉大さは、様々な疑問や困難を乗り越えて、イエスの道を準備するという自分の使命をまっとうしたことです。私たちもこのヨハネにならい、少しでも神の国のために働きたいものです。そのためにもこの待降節中に私たちは独り子をお与えになったほどに世を愛された神、私たちの救いのために肉となった、私たちの間に宿られたキリストを黙想し、神に従う決心をまた新たにしたいものです。

ページのトップに戻る


待降節第1主日(A年)説教
2010年11月28日・酒井 俊雄師

 

 今日から新しい典礼暦が始まりました。教会はこの新しい一年が始まる最初の四週間を「待降節」と呼び、救い主イエス・キリストのご降誕(クリスマス)を待ち望む期間に定めて、この待降節中に、昔イスラエルの民が、救い主(メシア)を待ち望んでいたと同じ心を、私たちにも起こさせようとしています。
 昔のイスラエルの民が「救い主」を待ち望んでいたこの希望は、今から2000年ほど前に起こった、イエス・キリストの誕生という出来事によって実現されました。そして現代の私たちキリスト者にとって、「待降節」はミサの中で私たちが、「主の死を思い、復活をたたえよう主がこられるまで」、「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストがこられるのを待ち望んでいます」と祈っているように「終末の日」、今日のマタイ福音書では「人の子が来るのは」(24:37)といわれている、終わりの日におけるキリストの再臨を待ち望むことです。ですから「待降節」とは、単に2000年前のベトレヘムの家畜小屋でお生まれのなった、イエスを思い起こすということだけでなく、今も生きておられ、私たちに呼びかけられ、私たちを支え導いてくださるキリスト、終末に再臨されるキリストを思い起こさせ、私たちに心の準備をさせる期間でもあります。 この期間に私たちは、待っている私を見つめなおし、私たちが待っているのは、この世の歴史はただ時間が経過していくのではなく、神の定め、神の導きによって歩んでいること、そして必ず主の日がやってきて、その時神の国が完成され、新しい世新しい時代が始まるという、決定的な時の到来を待ち望むという、信仰をしっかり養わなければなりません。
 今日のマタイ福音書で読まれましたように、キリストの再臨を待ち望む人の根本的な態度は「いつも目を覚ましている」(24:42、43)ということです。主の日は必ず来る、しかしそれがいつであるか分からないのですから、私たちに必要なことは、その日がいつ来てもよいように、いつも用意をしておくということです。終末の日というと何となく漠然としていますが、このことは死ということについて、考えてみると分かりやすいのではないでしょうか。ある人が「人は必ず死ぬ、だから死について全く考えない人は、愚かな人だ。しかしいつ死ぬか分からない、だから死ぬことばかり考えている人は、もっと愚かな人だ」と言っていました。私たちの人生には限りがある、だからこの限りがある人生をどのように生きるべきかを考えなければなりません。その意味で死を考えることは、実は生を考えるということなのです。今与えられている命を大切にし、その時そのときを悔いのないように、精一杯生きていくことが大切なのです。私たちは全ての出会いを「一期一会」と考え、その出会いを大切にしなければなりません。過去に捉われすぎたり、将来の夢ばかり見るのではなく、今と言う時を大切に生きてゆく、このような生き方が「いつも身を覚ましている」ということだとおもいます。今日イエスさまは私たちに「いつも目を覚ましていなさい」と呼びかけています。私たちはこの呼びかけを大切にして、今この時を、悔いにないように生きていきたいものです。

ページのトップに戻る


「王であるキリスト」(C年)説教
2010年11月21日・酒井 俊雄師

 

 本日は王であるキリストの祭日です。教会は典礼暦最後の主日である今日「王であるキリスト」を祝い、私たちがキリストの王国(神の国)に思いを寄せ、その実現を待望するように勧めています。
 さて、ただ今読まれましたルカ福音書には二人の犯罪人が出てきます。一方はイエスをメシアとして認められずにイエスをののしります。しかし、他方はイエスをメシアと認めて、救いを願います。メシアと認めない犯罪人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(23:39b)となじります。メシアなら自分を救えるはずだ、だがイエスは十字架にかかったままで自分を救えない、だからメシアではないというのです。このことは「他人を救ったのだ、もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:35b)と言ってあざ笑った議員たちも、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23:37)と侮辱した兵士たちも同じである。
 彼らはイエスをこの世の政治的な王として考え、みじめに殺されていくイエスを見てあざ笑ったのです。彼らは救いを自分たちの現実の苦しみや不幸からの解放と考え、それをメシアに期待していたのです。しかしこれは神を自分の思いどおりに動かそうとすることにほかなりません。自分たちが神の僕であることを忘れ、神を自分の思いどおりに動かそうとすることにはかなりません。自分たちが神の僕であることを忘れ、神を自分たちの僕にしようとしているのです。聖書はこれを偶像礼拝として厳しく戒めています。
 しかしもう一人の犯罪人はちがいます。十字架はメシアを否定するものではなく、むしろ、メシヤの証拠であると認めています。「しかし、この方は何も悪いことはしていない」(23:41b)そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)と願います。何も悪いことをしなかった義人が十字架を担う、彼は自分を救えないのではなく救わないのだ、なぜなら自分が死ぬことによって全ての人を救うことができるからだ。「人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:23−24)といわれているように、人々を救うために十字架で死ななければならないことを理解したからです。「あなたの御国においでななる」(ルカ23:42)と言っているように、この犯罪人は十字架のイエスを王として仰いでいたのです。そしてイエスの憐れみを願ったのです。
 私たちもこの犯罪人の信仰を見習い、十字架の死に私たちに対する、神の愛、イエスの愛を悟り、イエスの国に招かれるように祈っていきたいものです。


ページのトップに戻る


年間第33主日(C年)説教
2010年11月14日・酒井 俊雄師

 

 エルサレムにあるホーリーランドホテルの中庭に、イエスさまの時代のエルサレムの街の模型があります。模型といっても一つ一つ石で出来ており、大変立派なものです。その街にはすばらしい神殿が建っているのですが、この神殿はBC20年に、ヘロデ大王によって着工され、当時46年かかってもまだ完成しないほど長期間にわたったもので、その美しさは格別だったそうです。回廊の中にある石柱は一つの石で出来ており、高さは4mに達していたそうです。
 マルコ福音書には弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13:1)と感嘆したと記されています。 イエスの弟子の多くは貧しいガリラヤの漁師たちで、このような立派な建物はほとんど見たことがなかったのでしょう。弟子たちは石の大きさと、建物のすばらしさにすっかり目を奪われてしまい、この神殿は永遠に続くものと思ったことでしょう。これに対してイエスさまはこの神殿の破壊を予言されるのです。(この神殿は63年頃完成し、70年にはロ―マ軍によって破壊されてしまいます)そして人間的に見てどんなにすばらしいもの、堅固なものであっても、それは必ずいつかは滅びるものであることを教え、本当に堅固なものは神のみであると教えられたのです。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」(ルカ21:17−18)とおっしゃって、本当に恐れるもの本当に頼れるものは神のみであり、神に信頼する人は決して滅びることはないと教えられました。
 更に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカ21:19)と言って、私たちに忍耐するようにすすめています。「忍耐する」(ヒュポメノー)は、期待する・しっかり立つ・耐え抜くという意味があり、「運命がもたらす災いを静かに受容すること」・「体罰による懲らしめを勇気をもって背負うこと」・「賄賂を堅く拒むこと」等を表し、我慢と違って、力あふれた前向きの姿勢を意味するそうです。また忍耐(ヒュポモネー)という名詞はヒュポ(もとに)とモネオー(留まる)の合成語でこの言葉は「神のもとに留まる(辛抱強く神を待ち望む)」の意味と「この世のもとに留まる(この世を耐え忍ぶ)」の意味が合わさった言葉です。したがって忍耐する人とは神に絶対的な信頼を持ち、それ故にこの世でどんな困難な状況にあっても、絶望的な状況にあってもけっして失望することなく、また現実から逃げることなく、いつも希望をもって乗り越えていく人をさすのです。
 今日の福音でイエスさまは私たちに本当に堅固なもの、信頼しなければならないものは何かということを教え、人間的にどんなにすばらしいもの、大切なもの、価値あるものであっても、それに信頼する人はいつか必ず失望してしまうけれども、神に信頼する人は決して失望することはない、そして神に信頼する人のみがどのような状況におかれても、いつも希望をもって、忍耐することが出来るのだと教えられています。私たちもこの信仰を今日また新たにしたいものです。

ページのトップに戻る


年間第30主日(C年)説教
2010年10月24日・酒井 俊雄師


 

 本日読まれましたルカ福音書には、2人の人物が登場します。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。ファリサイ派の人は「わたしは奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではない」(18:11b)、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(18・12)と祈っているように、倫理的に正しく、宗教的に熱心な人だったのです。他方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(18:13b)と、祈っているように、神さまの顔をまともに見ることが出来ない、倫理的にも宗教的にも駄目な人だったのです。ですからこの話は、倫理的にも、宗教的にも正しく熱心だったファリサイ派の人が義とされ、駄目であった徴税人は罰せられたというと分かりやすいのですが、イエスさまは「義とされて家に帰ったには、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」(18:14a)と教えられています。
 ではなぜ、倫理的に正しく、宗教的に熱心であったファリサイ派の人は義とされなかったのでしょうか。彼は「立つて心の中で祈った」(18:11a)としるされています。「心の中で」とは、「自分自身に向かって」という意味です。ですから彼は神さまの前に胸を張って自分の義を誇ってみせたのです。このことは彼の祈りの中に、「私はほかの人たちのように」(18:11b)とか「この徴税人のような者ではない」(18:11b)という言葉からも分かります。彼は義とされる(救われる)のは、善行の報酬であると考え、自分は正しい人間だから神さまは自分を義とするのは当然であり、徴税人は正しい人間ではないから、神さまが罰するのが当然であると考え、この徴税人を見下してしまったのです。それに対して徴税人は自分には誇るものが何もないので、必死に「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈って、神の憐れみを願ったのです。ですから、この徴税人は救われたのです。なぜなら救い(義とされる)は神の業だからです。ファリサイ派の人は神が義とされる(救われる)のは、神の一方的な恵みであり、無償の愛であることを忘れ、救いの主体は神であるのにもかかわらず、自分の義(力)で自分を救おうとしたのです。これは自分を神の地位に置いてしまうことであり、偶像礼拝として厳しく戒められていることです。
パウロはロ−マ人の手紙の中で「正しい者は一人もいない」(3:10b)、「律法を行うことによっては、罪の自覚しか生じない」(3:20b)といっています。私たちは神の前では決して誇ることは出来ないのです。私たちにとって大切なことはこの駄目な、いたらないわたしたちを神が愛して下さっているという神の愛に信頼し、神の憐れみをこうことです。自分を誇り、他人を見下げてしまったファリサイ派の人のようではなく、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:3b−4)という、パウロの勧めを大切にして行きたいものです。


ページのトップに戻る


年間第26主日(C年)説教
2010年9月26日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたルカ福音書の箇所は「金持ちとラザロ」のたとえ話です。
  このたとえは、「金に執着するファリサイ派の人々が、イエスをあざ笑った」(16:14)ことに対して、イエスさまが、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(16:15)ということを教えるために話されたものです。
 このたとえばなしには2人の人が登場します。1人は金持ちで、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日をぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)人で、もう1人は「ラザロというできものだらけの貧しい」(16:20)人です。このラザロは金持ちの門前に横たわり「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(16:21)のです。当時の習慣では料理を食べると、パンで皿の上をふきとり、そのパンを犬に投げ与える風習があったそうです。ラザロはそのパンを求めて、横たわっていたのです。しかし、金持ちはそれさえも与えなかったのです。多分金持ちには、ラザロの存在などまったく目に入らなかったのです。彼が大切にしていたのは、自分自身の毎日の楽しみであり、それが貧しい人に対する無関心を生み出したのです。
 ファリサイ派の人々は、律法に忠実に生きることを誇っていました。たしかに、表面的にはきびしく、律法を守っていたようですが、実際には金に執着し、貧しい人々を顧みようとはしなかったのです。イエスさまは、ファリサイ派の人々に、「『わたしが求めているのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(マタイ9:13)と言っています。
パウロは、フィリピ人の信徒への手紙の中で、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」(3:19)と言っています。このように神さまは自分の欲望を満たすことだけに夢中になり、隣人に対して無関心になることを忌み嫌われるのです。
先週「不正な管理人のたとえ」が読まれましたが、そこでは「不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」(16:8)といわれています。無論不正なやり方を褒めたのではなく、彼が真剣に自分の将来のことを考え、実行したことをほめたのです。私たちも何が神に喜ばれるかを真剣に考え、実行していきたいものです。
  

ページのトップに戻る


年間第25主日(C年)説教
2010年9月19日・酒井 俊雄師

 

 本日の第一朗読では、アモスの預言が読まれました。このアモスという預言者は、紀元前8世紀の人で、ヤロブアム二世の治世に活躍した預言者です。ヤロブアム二世という人は大変優秀な王さまで、「イスラエルの中興の祖」といわれた王さまです。この時代イスラエルの国は、大変繁栄した時代でした。しかし、この繁栄の裏には、数々の社会不正や、心のこもっていない形式化してしまった儀式が盛大に行われ、道徳的・宗教的退廃が進んでいたのです。アモスはそのような社会に対して、「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ……正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」(アモス5:23−24)といって、神の正義をこの社会に実現するよう繰り返し警告したのです。
 本日読まれました箇所も、なぜ神がイスラエルを罰するかについて、アモスが預言した箇所です。彼らは自分たちの利益のみを考え、そのために貧しい者、弱い者を踏みつけにしているのです。彼らは商売で儲けることばかり考え、安息日に商売が出来ないことをなげいています。安息日は十戒の中にある規定で、この日は仕事を休まなければならないからです。本当は商売をして儲けたいにですが、安息日に商売をすれば皆から非難されるのでそれが恐ろしくて出来ないのです。
 申命記には「安息日を守ってこれを聖別せよ。……七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。……そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことが出来る。あなたはかってエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさなければならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」(5:12、14−15)とあります。ここには安息日を守る理由が2つあります。1つは、自分たちがエジプトの国で奴隷であった時の苦しみを思い出し、今苦しんでいる人々を思いやるためであり、もう1つは、エジプトの奴隷から神が導き出してくださったことに対して、賛美と感謝を捧げるためです。
 しかし、アモスの預言にあるように、当時の商人や金持ちたちは、自分が儲けることで頭がいっぱいであり、そのために「エファ升を小さくし、分銅を重くし、……またくず麦を売ろう」(8:5B、6B)としているのですから、2重・3重の搾取が行われ、いかにごまかして利益を上げようとしていたかがわかります。ここには神に対する感謝も、貧しい人に対する思いやりもありません。そのために神から罰せられるのです。富に仕える人とはこのような人です。
 今日の福音でイエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13C)と教えています。わたしたちはこのイエスの呼びかけに応え、日頃何を一番大切にしているのかを反省したいものです。


ページのトップに戻る


年間第24主日(C年)説教
2010年9月12日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたルカ福音書の箇所は「失われた羊のたとえ」として有名な箇所です。このたとえには、イエスさまを中心にして、二組の人が登場します。一組は徴税人や罪人と言われている人たち、もう一組はファリサイ派の人々や律法学者たちです。
 徴税人や罪人は、神さまの戒めである律法を守らない(守れない)人たちで、当時のユダヤの社会では落ちこぼれであり、神さまから見捨てられた、救われない駄目な人たちでした。他方ファリサイ派の人や、律法学者は律法を忠実に守り、意志も強く、倫理的にも正しく、宗教的にも熱心な人たちでした。彼らは、自分たちは律法を守っているから正しい人で、神さまから大切にされ、救われるべき者であると考え、律法を守れない徴税人や罪人を、駄目な人間であると馬鹿にし、付き合うことをしなかったのです。
 ところがイエスさまが徴税人や罪人と話をし、食事まで一緒にしているのを見て「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15・2)と言って非難したのです。これに対して、イエスさまが話されたたとえが「失われた羊のたとえ」です。このたとえにも二種類の羊がでてきます、一方は、羊飼いの言うことをよく聞いていた九十九匹の羊であり、もう一方は、羊飼いの言うことを聞かずに自分勝手に行動し迷ってしまった一匹の羊です。このたとえで羊飼いは神さまですから、九十九匹は律法を守っていたファリサイ派の人や律法学者で、一匹は律法を守れない、徴税人や罪人を表しています。
 当時、羊飼いは羊がいなくなると「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回った」(15・4)といわれています。それは羊飼いにとって羊一匹一匹が大切な存在だったからです。ですから一匹でもいなくなると大騒ぎして、その一匹を捜し歩くのです。「そして見つけたら喜んで、その羊を担いで家に帰り」(15・5−6a)皆で喜び合うのです。このたとえは、羊飼いにとって羊一匹一匹が大切であるように、神さまにとって、私たち一人ひとりは大切な存在なのだということを、私たちに教えてくれます。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、神さまの掟である律法を、守れない徴税人や罪びとたちを、駄目な人間だと決めつけ、自分たちが付き合わないばかりか、一緒に食事をしたイエスさままで、罪人の仲間になったと言って、非難をする態度に対して、イエスさまはそうではない、この徴税人や罪人も、神さまにとっては、大切な人たちなのだと言うことを、教えられたのです。
 このように全ての人が神から愛され、大切にされているのです。私も私の周りにいる人々も、一人ひとり神から大切にされているのです。健康であろうと病気であろうと、頭が良かろうと悪かろうと、社会に貢献しようとしまいと、そんなことに関係なく、私たち一人ひとりは、かけがいのない大切な存在なのです。なぜなら、その人は神さまから愛されているからです。ここに人間の価値があるのです。このような人間観、価値観をもって、共に生きていくことが出来るようになりたいものです。


ページのトップに戻る


年間第21主日(C年)説教
2010年8月22日・酒井 俊雄師

 

 今日の福音で、ある人がイエスに向って「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と質問します。するとイエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」とおっしゃいます。この努める(アゴ―ニゾマイ)という言葉は敵に対する戦いよりは、自分への戦いを強調する言葉で、スポ―ツ競技者が勝利を得ようと体を鍛えて努力することを意味しているそうです。ですからイエスさまは「救われる者は少ないのでしょうか」と余計な心配をして時間を浪費する前に運動選手の克己心を見習い、努力すべきであると言っているのです。
 浅野順一さんという聖書学者の方が「選み」ということについて次のように言っています。
1.選みということは先ず他人についていうことではなく、自分についていうことである。
2.選みは積極的な面において、先ず考えるべきことである。……自分は選まれていないのであるから、信仰に入ることは出来ないというが如きは、全く意味をなさぬ言葉である。
3.選みということは、人間が神を選むのではなく神が人間を選むことである。
4.選みは、選まれたと思う時に、その全体がわかってしまうのではなく、それはむしろ後になってわかることである。
 この選みという言葉を救いに置き換えて考えればよいとおもいます。
結局、救いということに関して、私たちは第三者的な立場に立つことはできないということです。だれもあの人は救われていないとか、自分はもう救われないなどと言えないということです。救われるために私たちが出来ることは必死に願い求めるということです。イエスさまは「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)や、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18章)などをとおして、天の父は私たちが父の憐れみをこい、父と共に生きていきたいと必死に願うならば必ず受け入れてくださる。ご自分の子どもとしてくださると教えてくださいました。私たちはこのイエスの言葉に信頼し、救われるように願い続けていくことが大切なのだと思います。

ページのトップに戻る


聖母の被昇天 説教
2010年8月15日・酒井 俊雄師

 

 本日は聖母被昇天の祭日です。ピオ12世は1950年11月1日に、「神の母であり、全ての信者の母であるマリアが、地上の生活を終えた後、肉身と霊魂と共に天の栄光にあげられた」ことを宣言し、マリアがキリストの復活と栄光にあずかる恵みを受けたことを、お祝いするために、8月15日を聖母の被昇天の祭日と定めました。この祭日にあたり、聖書にあらわれてくるマリアの姿を見ることにより、私たちの信仰について少し考えてみたいと思います。
 マリアが聖書に出てくる箇所はそれほどおおくはありません。イエスの誕生のとき、即ち神が御子イエスを、この世におつかわしになったとき、イエスの母として選ばれたマリアが御使いであるガブリエルに、「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と答え、神に信頼し従った姿。またイエスが12歳になったときエルサレムの神殿に行き、いなくなったイエスを心配して探しまわっている姿、がリラヤ伝道のとき人々がイエスを気ちがいあつかいにして「彼はベルゼブルにとりつかれている」(マルコ3:19)と言ったとき、心配してイエスに会いに来る姿。カナの婚礼でブドウ酒がなくなったことを心配し、イエスに頼む姿、イエスが捕らわれて十字架につけられた時、その下にたたずむマリアの姿。また使徒言行録には、弟子たちと共に、心を合わせて祈っている姿が描かれています。
 このように聖書に現れるマリアの姿は、イエスの母として、一方ではイエスを信じ、イエスの使命のよき理解者であると同時に、他方ではイエスに信頼しながらも、常に心配し見守っている姿として描かれています。しかしマリアは決してイエスのことを全て知っていたわけではありません。ルカ福音書には、イエスのおっしゃったことにたいして「しかし両親(ヨセフとマリア)には、イエスの言葉の意味が分からなかった……母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2:50−51)と記されています。マリアはイエスの言葉が理解できないこともありました、しかしイエスを信頼し、いつかわからせてくださることを信じ心に留めていたのです。私たちもこのように何かわからないことがあってもイエスに信頼し、いつかわからせてくださることを信じ、心に留めておきたいものです。
 教会はマリアのうちに自分たちのあるべき姿を見、全ての信者の母であることを教え、信仰生活をおくる者の希望として示し、深い尊敬を払ってきました。私たちもマリアをイエスの母として、そのよき理解者として、また信仰の先輩として尊敬しこの日をお祝いすると共に、マリアが神を信頼し、神に従ったように、マリアさまに習って神に従って生活することが出来るようになりたいものです。


ページのトップに戻る


年間第17主日(C年)説教
2010年7月25日・酒井 俊雄師

 

 大分前になりますが、あるテレビ番組で予備校の授業の風景を放映したことがありました。その授業は先生が生徒たちに次々と質問をしていくと、生徒たちはその質問に間髪を入れずに答えていくのです。少しでも間をおくと大声で叱られるというものでした。まるでコンピュ−タ−に入力すると、すぐ答えが出てくるみたいで、ただびっくりして見ていたものです。その授業では物事をじっくり考えるとか、様々な疑問を持つとかいったことは許されず、ただ反射神経を養っているようでした。現代の受験制度の下での教育は、単に多くの知識を詰め込むだけで、物事を長い目でみたり、疑ってみることは無用のようです。そして私たちもそのような教育を受けてきた結果、すぐに答えを求めそれが得られないと簡単にあきらめてしまうのです。
 今日イエスさまは私たちに「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(ルカ11・9)と言って、すぐに答えが得られなくても、求めつづけていく、探し続けていく、たたき続けていくように呼びかけておられます。私たちは毎日の生活の中で様々な困難に出会い、それを乗り越えるために祈り、努力していきます。しかしなかなか自分の思いどおりにならないと、すぐに「神も仏もあるものか」と言って投げ出してしまい、現実から逃避してしまいがちです。しかし、その現実を受け止め、その意味を心に留めて思い巡らし、長い目で考えていくということが大切なのだと思います。
 イエスさまは「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか、このようにあなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物をあたえることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11・11−12)と教えられました。不完全な私たちでも子供には良い物を与えるなら、まして完全な方である天の父は、必ず求める者に聖霊を与えてくださると教えられたのです。ルカにとって聖霊は困難を乗り越えさせる力です。ですから困難の中にあるとき、しつように祈り求めていくこと「求め、探し、たたく」ことの必要性が強調されているのです。
 そのためには、天の父に対する、絶対的な信頼が要求されます。信頼するからこそ「求め、探し、たたき続けることが出来るのです。私たち一人ひとりは、天の父から大切にされ、見守られ、期待されているのですから、神を信頼し、どのような困難に出合っても、それを乗り越えていく勇気と、力が与えられるように、祈り続けていかなければなりません。そして神に対する信頼を持ち続け、すぐに結果を求めたり、簡単にあきらめたりするのではなく、いつも希望を持って、長い目で物事を見ていくことができるようになりたいものです。

 

ページのトップに戻る


年間第16主日(C年)説教
2010年7月18日・酒井 俊雄師

 

 本日の福音にはマルタとマリアという姉妹が登場します。この姉妹はエルサレムの近くにあるベタニアという村に住んでおり、イエスさまから大変愛された姉妹で、イエスさまがエルサレムに行ったとき、しばしば休まれたようです。今日の福音でもイエスさまはこの姉妹の家に寄られたわけです。マルタは世話好きな活動的な性格であり、マリアはおとなしいひかえめな性格だったようです。イエスさまが来たということで、マルタはイエスをもてなすための料理のことで頭が一杯になり、せわしく働いているのですが、マリアの方はイエスの足元に座ってイエスの話を聞いていたのです。そこでマルタはイエスに近寄って「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか、手伝ってくれるようにおっしゃってください」と言います。それに対してイエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだそれを取り上げてはならない」(ルカ10:42)とおっしゃったのです。
 イエスとしてはこれからエルサレムに向かう、即ち苦難と死への道に向かうにあたって、この愛された姉妹とゆっくり話し、静かな時を持ちたかったのではないでしょうか。しかし、決してマルタを怒っているのではなく、優しく注意しておられます。「マルタ、マルタ」と名前を二度呼ばれたことはこれを示しています。マルタが自分を接待してくれるために、料理をつくってくれていることには感謝していたと思います。しかし自分の話に静かに耳を傾けているマリアに、もっと感謝していたのではないでしょうか。そして「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」(ルカ10:40)と言って、自分の接待の仕方が一番良いと思い込んで、それをマリアにも強要したことに対して注意されたのだと思います。
 大分前になりますが、ある新聞の投書欄に義母を亡くしたお嫁さんの投書がありました。義母のお通夜のとき、義母さんのことを悲しんで棺のそばで泣いていると、親族の一人が来て「あなたはこんなところに座っていてはいけません、大勢のお客さんが来て下さっているのですから、台所に行ってその人たちに出す料理を作り接待するのが嫁の義務ですよ」いって怒られたそうです。そこでこのお嫁さんは悲しみをこらえて台所で働いていると、別の親族の人が来て「あなたはなんという冷たい人だ、義母さんが亡くなったというのに涙一つこぼさず台所にひっこんでいるとは」と言って非難したということです。
 このように、私たちは自分の思いで人を判断してしまい、人を非難してしまいながら自分では親切に忠告し、人を傷つけてしまいながら、自分では良いことをしていると思っていることが、多いのではないでしょうか。マルタも自分の接待の仕方が最善であると思い込んで、それをマリアに押し付けようとしたので、イエスさまから注意されたのだと思います。私たちは自分の考えや自分の行動を絶対だと思い込んではならないと思います。そしていつも相手の人の立場や考えを理解出来るような広い心を持ちたいものです。

ページのトップに戻る


年間第15主日(C年)説教
2010年7月11日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたルカ福音書の箇所は「サマリア人のたとえ」として大変有名な箇所です。この話のきっかけになったのは、ある律法の専門家がイエスさまに「わたしの隣人とはだれですか」(10:29)と尋ねたことによります。それに対してイエスさまが答えたのが、この「サマリア人のたとえ」です。
 しかしこの話をよく読んでみますと、イエスさまはこの律法学者の質問に答えていないことがわかります。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対しては、「あなたの隣人とはだれだれですよ」、あるいは「あなたにとってだれが隣人だと思うか」と答えるはずです。しかしイエスさまは、この「サマリア人のたとえ」を話されて、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(10:36)と問われています。
 このことは律法学者の質問そのものを否定しているのではないでしょうか。すなわち、「わたしの隣人とはだれですか」という問いは、座標軸の原点に自分がいて、その周りに円を描いて、円内なら隣人、円外いなら隣人ではないという発想です。そしてこの円をどこに描いたらよいですかと質問しているわけです。この発想ですと、円をどんなに広げていっても、座標軸の原点にいるのは自分です。しかしイエスさまは「この三人のうちのだれが隣人になったと思うのか」と聞かれたのです。この発想では座標軸の原点にいるのは自分ではなく、強盗に襲われた人(他者)です。そして、その人に近づく人は隣人であり、近づかない人は隣人ではないということです。
 ですから「わたしにとって隣人とはだれか」ではなく、「わたし自身が隣人になっていく」という発想の転換が求められているのです。私たちは自分が一番可愛いものですから、ともすれば自分が、自分がという発想になってしまいがちです。しかし相手(他者)の立場になって考えるということが大切なのではないでしょうか。イエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)またユダヤ教のラビも「自分にしてほしくないことは、人にもするな」と教えています。これらのことは何かしようとするときには、相手の立場になって考えなさいということです。
 私たちもいつも相手の人を大切にし、相手の立場に立って考えることができるようになりたいものです。


ページのトップに戻る


年間第13主日(C年)説教
2010年6月27日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたルカ福音書は、この箇所から新しい場面になります。弟子の教育が一段落し、いよいよエルサレムへの道、受難と死への道を歩み出すのです。イエスは決意を固められたと記されていますが、直訳すると顔を固められたということで、顔を真っ直ぐにエルサレムへと向けて歩み出すという、固い決心を表している言葉です。しかしイエスの歩みは、いつも人々に理解され受け入れられるというわけではありません。
 イエスはその誕生の時から、人々に受け入れられなかったのです。イエスさまが生まれたとき「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2:6−7)と記されています。人々を救うために、エルサレムに向って歩み始めたときも、サマリア人たちはイエスを歓迎しなかったのです。自分たちを受け入れないサマリア人たちに対して、ヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9:54)と言います。それに対してイエスは「振り向いて二人を戒められた」(ルカ9:55)のです。今日の箇所の直前にも「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(9:49−50)といって弟子たちを戒めています。
 このようにイエスに従って歩んで行くとき、行く手を阻む者、迫害する者にたびたび出合うこと、いかなることがあっても決して復讐など考えてはいけないこと、受け入れなくても、絶望せず神の国の福音をのべ伝えて行くことが、大切なのだと教えられたのです。パウロもロ−マ人の手紙の中で「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼らの頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:19−21)と言っています。人が人を裁いてはいけないと言っているのです。
 キリスト者は決してだれにも石を投げてはならない(ヨハネ8:1−11・〔姦通の現場で捕らえられた女への態度〕参照)のだと思います。私たちは敵対者からの迫害を、覚悟しなければなりません。そしてどんな迫害にあっても決して裁くことなく、いつもイエスに従って、歩んでいく決心をまた新たにしていきたいものです。

ページのトップに戻る


年間第12主日(C年)説教
2010年6月20日・酒井 俊雄師

 

 マルコ福音書によれば、イエスが12人の弟子を選んだ目的は、「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させる」(3:14)ためであったと記されています。自分のそばに置くためたには、内弟子にして特別に教育するためです。そしてイエスは弟子たちと寝食を共にし、言葉と行いをもって教えられたのです。その結果、今日のルカ福音書で読まれましたように「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(9:20a)という質問に対してペトロが「神からのメシアです」(9:20b)と答えるまでに教育されたのです。
 しかし、どのようなメシアであるかについては、弟子たちの理解はまだ不充分でした。イエスは苦しみを受け、捨てられ殺されることによって、救いを完成するメシア、十字架を担い、受難の道を歩むメシアです。しかしこのことが理解出来ない弟子たちに、一方では「このことはだれにも話さないように」(9:21)と命じ、他方では「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)と教えられたのです。更に自分たちの立身出世ばかり考えている弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)と教えられたのです。
「自分を捨てる」ということは、自分さえよければよい、自分のことしか考えないという、自己中心的な考えを捨てるということです。そして「日々、自分の十字架を背負っていく」とは、「日々」といわれているように、特に殉教とかいう特別なことではなく、毎日の生活の中でおこる様々な苦しみや、悲しみ、不安等に絶望することなくいつも神に信頼し、希望と勇気をもってそれらの困難を背負って、イエスに従って歩んでいくということです。
 イエスと父なる神との関わりが、苦しみに終わらず復活に至ったように、イエスに従う者と、イエスの関わりも十字架を通して、必ず生命へと導かれるものです。イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(9:24)と教えられました。自分のことしか考えない、自分さえよければよいという思いを捨てることによって私たちは神との交わり、永遠の生命へと招かれるのです。
 イエスは、今日私たちに「自分を捨てる」こと、「日々、自分の十字架を背負う」こと、「わたしに従う」ことを求めておられます。この呼びかけに応え、私たちは「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払って」(フィリピ2:4)、イエスに信頼し、イエスのように、「共に生きる」ことが出来るようになりたいものです。

ページのトップに戻る


「聖霊降臨の主日」(C年)説教
2010年5月23日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたヨハネ福音書で、イエスさまは弟子たちに、弁護者を遣わすことを約束しています。この弁護者は、真理の霊、聖霊とも呼ばれ、イエスさまは弟子たちに、最後の晩さんのときに、繰り返しおくることを約束しています。「わたしは父にお願いしよう、父は別の弁護者を遣わして永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この霊は真理に霊である」(14:16−17)、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(15:26)、「その方、すなわち、真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(16:13)と言っています。このように聖霊はわたしたちのうちにいて、イエスの言行をわたしたちに思い起こさせ、その意味を知らせ、イエスがキリストであることをわたしたちに悟らせる働きをするのです。ですからパウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Tコリント12:3)と言っているのです
 この聖霊が弟子たちにくだったことが、今日の第一朗読で読まれました、聖霊を受けた弟子たちはもうユダヤ人たちを恐れることなく、堂々と人々のまえで、イエスがキリストであることを証ししたのです。ですから、洗礼により聖霊を受けキリスト者となったわたしたちも、この現代社会の中で、キリストを証ししていかなければなりません。そのためには、今日の第二朗読でパウロが言っているように、霊の導きに従って生きることが大切なのだと思います。
 現代社会は肉の業(敵意、争い、怒り、利己心、等々)に満ちています、その結果自分勝手な思いやりの無い、生命を軽視した様々な事件が起きています。このような現代社会にあって、わたしたちキリスト者の責任は大きいのではないでしょうか。今日聖霊降臨をお祝いするわたしたちは、この恵みに感謝するとともに、イエスによってこの世に遣わされた者であることを自覚し、霊に実(愛、喜び、平和、等々)を結ぶことが出来るように勇気を持って生きて行きたいものです。


ページのトップに戻る


「復活節第6主日」(C年)説教
2010年5月9日・酒井 俊雄師

 

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14・27)と、イエスさまは私たちに今日このように呼びかけています。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」(教会に平和を願う祈り)という言葉は、ミサの中でいつも祈られる言葉でもあります。しかしイエスさまは「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」とおっしゃいます。これはどのようなことを意味しているのでしょうか。
 私たちは平和という言葉を聞くとすぐに「戦争が無い・争いが無い・憎しみが無い・心配が無い」・「いつも穏やかで・平穏無事である」……という状態を思い浮かべます。私なりに平和な状態をイメ−ジしてみますと、なだらかな草原で太陽の光をあびながらのんびりと寝転んでいる、周りには花が咲き乱れ、小鳥がさえずり、麓には農家の煙突から白い煙が一筋まっすぐに昇っているというような風景を想像します。しかしイエスさまは「心を騒がせるな。おびえるな」と言っているのです。この言葉の背景には心を騒がせる状況、おびえさせる状況があることが前提になっています。このような状況があるからこそ「心を騒がせるな。おびえるな」と言っているのです。この世が与える平和は「心を騒がせる状況がない、おびえさせる状況がない」ということを意味しますが、イエスのあたえる平和は、そういうことではないと言っているのです。
ヨハネ福音書の16章でイエスさまは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたかたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」(16:33)とおっしゃっています。「あなたがたはこの世で苦難がある」と言われているように、私たちは毎日の生活に中で様々な困難に出会います。これらのことがなくなるわけではありません。イエスを信じ、イエスに従って生きて行くならすべてがうまく行く、心配事がなくなる、ということをイエスさまは決して約束をなさいませんでした。むしろ「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害するだろう」(ヨハネ15:20)と言っています。困難はなくならない、しかし世に勝っている私が共にいるのだから勇気を出しなさいと言っているのです。
私たちは、自分がイエスから愛されている、イエスがいつも共にいて支えて下さる。このような確信を持つとき、どんな困難に出会っても、人間的にみて絶望的な状況になっても決してくじけることなく、それに耐え、乗り越えていく勇気があたえられるのです。このイエスに対する信仰を、今日また新たにしたいものです。
 私たちを大切にしてくださっている、主イエスがご自分の命をかけてくださるほど私たちを愛してくださっている、というところに私たちの価値があるのです。私たちはこの神の愛に応えて、神さまから愛された者同士として、互いに愛し合い、大切にし、共に歩んでいくことが出来るようになりたいものです。

ページのトップに戻る


「復活節第4主日」(C年)説教
2010年4月25日・酒井 俊雄師


  本日読まれました箇所はヨハネ10章です。ここにはイエスと私たちの関係が羊飼いと羊にたとえられています。そして、イエスは良い羊飼いとして「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」(10:10b)に来たこと、そのために自分の命を捨てることがしるされています。それではなぜイエスさまは、私たちのために自分の命を捨ててくださるのでしょうか。その理由が今日の福音に記されています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことは出来ない」(ヨハネ10:29)と言われています。私たちは全てのものより偉大ですから、イエスにとって私たちは自分の命をかけてくださるほど大切なのだと言っているのです。
 しかし、他の聖書(新改訳)ではこの箇所が「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です」(ヨハネ10:29)と訳されています。これは写本の違いによって起こるものです。新共同訳によれば、イエスが羊を守るのは羊が偉大だからであり、新改訳によれば、イエスが羊を守るのは神が偉大だからということになります。ここに大切なことが示されています。すなはち、羊が偉大なのは羊自身に価値があるのではなく、羊を愛している神が偉大だからということです。ここに人間の価値を見ることが出来ます。私たちの価値は、私たちが立派な人間だからとか、社会の役立ったからとか、なにか特別な才能があるからというわけではなく、父なる神に愛されているということにあるのです。
 私は一冊の古い聖書を持っています。この聖書は、私が司祭になったときある方から貰ったものです。「この聖書はわたしの父のものです、何か良いプレゼントを……と考えたのですが、ちっとも思いつきませんでした。古いふるい聖書ですので、すぐバラバラになるかもしれません。」という手紙がついていました。この聖書はラゲ訳といって文語体で書かれており実用的ではありません。また古いといっても1938年(昭和13年)の第7版のものです。ですから、一般的にみれば、実用的にも・美術的にも・歴史的にも価値があるわけではありません。しかし私はこの聖書を大切にしています。
 この聖書をくださった方のお父さんは、戦死しており、多分この方にとつてはお父さんの思い出が一杯つまった聖書だと思います。その方にとっては大切なものだったにちがいありません。この大切な聖書を私に下さったのだと思っています。ですから私はこの聖書を大切にしているのです。この聖書自体には価値がありませんが、その方の気持ちを大切にしたいので、私のとっては価値のあるものなのです。
 私たちも私たち自身は弱い駄目な人間ですが、父なる神が私たちを大切にしてくださっている、主イエスがご自分の命をかけてくださるほど私たちを愛してくださっている、というところに私たちの価値があるのです。私たちはこの神の愛に応えて、神さまから愛された者同士として、互いに愛し合い、大切にし、共に歩んでいくことが出来るようになりたいものです。


ページのトップに戻る


「復活節第3主日」(C年)説教
2010年4月18日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたヨハネ福音書には、イエスさまが三度現れたことが記されています。この話の背景にはルカの5章が考えられています。ここにはペトロたちが、はじめてイエスの弟子になったときのことが記されています。夜通し働いても、魚一匹とれなかったペトロたちが、イエスの言葉に従って網を降ろすと、思いがけなく大漁で、網が破れそうになった出来事が語られています。ですから、岸に立っておられる方が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(ヨハネ21:6)と言い、それに従って網を降ろすと、網を引き上げることが出来ないほど大漁だったのです。そのとき、イエスの愛しておられる弟子(ヨハネといわれている)がペトロに「主だ」と言ったのも、その時のことを思い出したからにちがいありません。
 そして、ルカの5章では、この話に続いてペトロにイエスが「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10b)と言われているように、弟子たちは人々に宣教するように召されているのです。ですから、「ペトロが『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った」(ヨハネ21:3a)のは、単に魚を捕るために行くのではなく、イエスの死後、弟子たちが宣教を始めたということを示しています。先週読まれましたヨハネの20章で、復活したイエスは弟子たちに現れ「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21b)というイエスの言葉に従ったことを表しています。しかし夜は何も捕れなかったと言われているように、夜すなわちイエス不在のときは、宣教は失敗に終わったことを示しています。
 弟子たちはイエスが死んだ後、自分たちは「主の復活の証人だ」・「イエスこそキリストである」と言って宣教し始めたのですが、パウロが「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、ギリシア人には愚かなもの」(Tコリント1:23)と言っているように、なかなか受け入れられず、かえって迫害にあったのです。彼らが自分たちの力だけで宣教を行おうとすれば、失敗してしまうでしょう。しかし、イエスの言葉に従い、イエスに支えられ、イエスと共に行うとき初めて宣教は豊かな実を結ぶと言う事を、この話は述べているのです。
 ペトロたちが捕った魚の数は、153匹であったといわれています。この153匹という魚の数が何を意味するのかについて、様々な解釈がされています。ヒエロニムスは当時のギリシア人は魚の総種類を、153匹と考えたと説明しています。そしてヨハネ、は153匹の魚という象徴によって、全世界から召された改宗者を指していると言っています。また舟とか網は教会の象徴ですから、今日の福音は、全ての民族に福音が伝わり、弟子たちの宣教活動が大成功のうちに行われ、教会がますます盛んになったことを示しています。
 私たちは毎日の生活の中で様々な出来事に出会います。ある場合には自分の思い通りにならず悩んだり、自分ではとても負いきれないような重荷を負わされることもあります。それらを自分ひとりの力で解決しようとすれば、絶望するしかありません。しかし私たちを愛し、私たちのために十字架上で苦しみ死んでくださった方が、いつも私たちと共にいくださる、私たちは決っして孤独なのではなく、イエスさまがいつも支えてくださる。このことを信じるとき、私たちはいつも希望をもって生きることが出来るのではないでしょうか。ペトロは「主だ」と聞くと裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだといわれています。ここに主イエスに出会ったペトロの喜びがよく表されています。私たちもこのペトロの喜びをいつも持つことが出来るようになりたいものです。


ページのトップに戻る


「復活節第2主日」(C年)説教
2010年
月11日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれましたヨハネ福音書には、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19a)としるされています。イエスが捕らえられたとき、師であるイエスを見捨てて逃げ去った弟子たちは、自分たちも捕らわれるのを恐れて家の戸に鍵をかけて、息を殺して隠れていたのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:31)と言っていた弟子たちは「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)のです。また、「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか、という議論も起こった」(ルカ22:24)と記されているように、最後までだれが一番偉いのかと争っていた弟子たち、そして、自分たちもイエスのように捕らわれ、殺されるのを恐れて戸に鍵をかけていた弟子たちでした。
 このように弱い、無理解な弟子たちでしたが、彼らはばらばらになってエルサレムから逃げ出しては行きませんでした。それは「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1:4b)というイエスの言葉があったからだと思います。弟子たちはこの言葉の意味はわからなかったに違いありません。エルサレムに残っていることは危険であり、いつユダヤ人に捕まってしまうにではないかと不安だったと思います。しかし、よくわからなくても、不利なことであっても、無駄だと思われてもイエスの言葉であるから、それに従おうとする態度が弟子たちをエルサレムに引き止めさせたのだと思います。
 このことは、ペトロたちが最初にイエスの弟子になったときのことを思い起こさせます。ペトロがイエスに「網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)と言われたとき「先生、わたしたちは、夜通し苦労をしましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と言って網を降ろしたのです。弟子たちはこのときの信仰を忘れていなかったのです。そして、このような心に、イエスさまがおいでになるということを今日の福音は私たちに告げています。人間的に理解できない、絶望的な状況にあっても、イエスを信頼していくというところに信仰が始まるのです。そしてイエスに対する信仰を持ち続ける限り、イエスさまが真ん中に立って教え導いてくださるのだということを今日の福音は伝えてくれます。また、復活したイエスに出会った弟子たちが「弟子たちは主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20b)といわれているように、イエスが共にいてくださるということは、私たちに平和と喜びをもたらすのです。
 私たちも毎日の生活に追われ、様々な苦しみに出会うとともするとくじけそうになってしまいますが、決して絶望することなく、この弟子たちのように、最後までイエスに対する信仰をもち続けたいものです。


ページのトップに戻る


四旬節第5主日(C年) 説教
2010年3月21日・酒井 俊雄師


  本日読まれましたヨハネ福音書の箇所は「姦通の女」の話です。当時のイスラエルでは、姦通は偶像礼拝に結びつくため、大変重い罪とされ、姦通したときには男女とも死刑にされました。そこで律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を、イエスの前に連れてきて「先生この女は姦通をしているときに捕まりました、こういう女は石で打ち殺せと、モ−セは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(8・5)と質問しています。これはイエスを試して、訴える口実を得るためでした。即ち、もしイエスが石で打ってはならないと言われるなら、モ−セの律法に反するかどで告発することができます。またもし石で打てと言われるなら、罪人に対する神の憐れみを説いている、イエスの教えと矛盾することになります。それと共に死刑の判決を下す権威を掌握していたロ−マに対する反逆にもなるわけで、ロ−マに訴えることが出来るのです。ここには罪を犯した人に対する思いやりはありません、その罪を利用して自己の目的を達しようとする、目的のためには手段を選ばないという態度があります。これに対してイエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8・7)といって誰も人が人を裁くことは出来ないということをきずかせるのです。そして「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8・11b)とおっしゃるのです。
 この姦通の女を真ん中にして2つのことが対立しています。1つは自分たちの罪や悪意にふれようともせず、他人の罪を利用して利己的な目的を、達しようとする律法学者や、ファリサイ派のひとびとで、他人の罪を罰する権威のない者が、激しく処罰を叫んでいる姿。もう1つはその人を裁かず優しく教え諭すイエスの姿で、罪を罰する権威のある方が、静かに罪の赦しを宣言する姿が対立されています。
 私たちは自分が罪ある者としてこの話に目を留めるとき、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」また「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉に、神の赦しなしには救われない人間の姿、赦されない自己が罪を罰する力を持つお方から、赦される姿を見ることが出来ます。ここに福音があるのです。ヨハネはイエスの福音にふれ、赦されたこの姦通の女がその後どのようになったか、福音の光に照らされて新しい生活を送ったのか、それともまた以前のように、罪の生活に戻ってしまったのかについては何も語ってはいません。これは私たち一人ひとりに問いかけられているのです。神の愛を受け、神に赦された私たちが今後どのように生きるのか、その答えは一人ひとりの決断にまかされているのです。この四旬節中に特にイエスの受難と死を黙想し、いかに神が私たちを愛しておられるかを悟り、神から愛され赦された者として、誰も裁くことなく、互いに愛し合い、赦し合って生きることが出来るように、その力を祈り求めていきたいものです。そして神に従って歩んでいく決心を、今日もまた新たにしたいものです。


ページのトップに戻る


四旬節第
主日(C年) 説教
2010年2月28日・酒井 俊雄師

 

  本日読まれました福音は、イエスさまの御変容の出来事を記した箇所です。このイエスの変容と言う出来事は、私たちにイエスの真の使命をあきらかにしてくれます。「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モ−セとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:28b−31)と記されています。
 イエスさまは祈るために山に登られたのです。聖書にはイエスさまが時々祈るために群集から離れて、一人でまたは数人の弟子を連れて、さびしい所に行かれたということが記されています。このときもイエスさまは、エルサレムで遂げようとする最期のこと、即ち、ご自分がこれから進もうとする十字架の道が、本当に神のみ旨であるかどうかを知るため、またそれを決断するために祈られたのです。
 ここに出てくる二人の人物、モ−セは旧約の律法を代表する人物で、メシアの原型とされている(申命記18:15)人です。エリヤは預言者を代表する人物で、メシアの先駆者(マラキ書3:23)とみなされている人です。この二人の出現は、イエスが聖書(旧約)で予言されているメシアであることを示しています。この両者とイエスがエルサレムでの最期(苦難と死)について語っていることは、メシアと十字架の死が結びつけられているのです。すなわち、イエスの生涯がイザヤ53章に出てくる「苦難の僕」の生涯であることをしめしています。
 そして輝く雲が三人を覆い、弟子たちが「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)という声がしたとき、そこにはイエスだけがおられたとしるされています。このようにイエス一人だけが残り、モ−セとエリヤの姿が消えていたということは、象徴的に私たちの救いの実現にとって、イエスの占める位置をあらわしています。イエスは旧約の完成者として現れ、モ−セとエリヤ、即ち律法と預言者の時代は終わり、新約時代が訪れたことを示しています。そして雲の中から「これに聞け」という声が聞こえたように、新約時代の私たちはイエスに聞くことが要求されているのです。
 この聞くと言うことは、たんに耳であるいは頭の中だけで聞くということではなく、聞くはいつも「聞き従う」ということを意味します。かつて神は律法と預言者をとうして語られましたが、いまは御子イエスによって語られるのです。イエスに聞き従うことが、父なる神に聴き従うことになるのです。ですから私たちはいつもイエスの言葉に耳を傾け、イエスに聞き従うという態度を身に着けなければなりません。イエスの言葉は聖書をとうして語られますので、日ごろから聖書に親しむことが大切です。
 四旬節にあたって、私たちは自分の生活態度を振り返るとともに、今日も聖書をとおして私たちに呼びかけておられるイエスの声に耳を傾け、どれだけイエスの呼びかけに聴き従っているかについて反省したいものです。


ページのトップに戻る


四旬節第
主日(C年) 説教
2010年2月21日・酒井 俊雄師

 

 本日読まれました福音書には、イエスさまが公生活を始めるにあたって、荒野に退いて40日間断食をして祈られたことが記されています。
  聖書では40という数は特別な数で、準備期間、清めの期間とされています。ですからイエスさまは、公生活を始める前に充分準備したということです。イエスさまだけでなく、旧約ではモ−セやエリヤ、新約ではパウロなどの人たちが、神から新しい任務を受けるにあたって、荒野に退いて祈り、それから新しい出発をしたことが記されています。このことは私たちにとっても意味深いことだと思います。荒野に退くということは、日常から離れることを意味しています。そしてそこで静かに自分を見つめ、反省することを意味しています。私たちもこの四旬節中に、静かに現在の生き方を見つめ直してみたいものです。
 イエスさまは、この40日間に断食と祈りを通して、自分の生き方の根本的な選択と、自からの運命を受諾する決断をなさったのです。このときイエスさまは、三つの誘惑を受けたことが記されています。
 第一の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3b)というものです。これはイエスさまが神から与えられた力を、自分のために使おうとする誘惑です。しかしイエスさまはこれを拒否なさいました。イエスさまの生涯をみますと、イエスさまが多くの奇跡を行ったことが記されていますが、それはイエスさまが、病人を深く憐れんだからで、決して自分のために奇跡を行わなかったことがわかります。私たちも自分の才能を自分のためばかりではなく、隣人のため、社会のために使いたいものです。
 第二の誘惑は「神の子ならここから飛び降りたらどうだ」(4:9b)というものです。これは人々をアッといわせ、自分が人々から注目されたい、名声を得たいという誘惑です。しかしイエスさまはこれを拒否なさいました。私たちも、私たちの行いが人々を自分のほうに導くのではなく、神に導くことが出来るようにしたいものです。同時にこれは神を試みるという誘惑でもあります、それは自分の思いどおりに神を働かせようとすることです。私たちが神のために働くのであって、神を私たちのために働かせようとすることは、偶像礼拝になります。
 第三の誘惑は「もし、(ひれ伏して)わたしを拝むなら、(世の全ての国々とその繁栄)みんなあなたのものになる」(4:7)というものです。「ひれ伏して拝む」という動作は神に対するものです。すなわちこれは悪魔を神とすること、神以外のもの名誉・富・権力あるいは自分自身を絶対化しようとする誘惑です。イエスさまは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(4:8b)といってこれを拒否なさったのです。
 この三つの誘惑をとうしてイエスさまは、神への絶対的信頼を強調しています。そして「自分のことばかりではなく、隣人に心を開いていく」、「神の言葉を自分に都合の良いように解釈し、神を試みることはしない」、「神のみを絶対とし、神以外を相対化する」という生き方を選ばれたのです。そして私たちにも、このように生きることを勧めているのです。四旬節にあたり、特に今までの自分の生き方を見つめ直し、イエスさまの生き方にならっているかどうかを反省しましょう。そして私たちは兄弟に対して、隣人に対して、社会に対して、人類の一員としてどうであったか、自己中心的生き方をしていなかったかを反省し、それを改める決心をし、ともに赦し合って行きたいものです。

 


ホームへ戻る ページのトップに戻る

お問い合わせ 〒130-0011 東京都墨田区石原4-37-2 TEL:03-3623-6753 FAX:03-5610-1732