「復活
主日」(A年) 説教
2011年5月
15 日・加藤 英雄師



ペトロは言います。イスラエルの人々は―イスラエルとは神を求める人々、神の道を行く人々神のうちに歩む人々です―はっきり知って欲しい。神が主とされた、メシアとされた方をあなたがたは十字架にかけて殺してしまったのです。人々は十字架の上で苦しむイエスにしるしを求めた。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うが良い。(ルカ23・35)神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27・40)人々は毎日語られるイエスを見ていた。そして、捕らえられたイエスを見た。十字架の刑に処せられているイエスを見た。イエスは人の力で死に追いやられたのだ。弱い者イエス。人々は思った。イエスは万軍の主ではなかった。
ペトロは言います。イエスはわたしたちの主です。神様はイエスを復活させられました。わたしたちはその証人です。この話は人々の心を刺した。自分たちはイエスを見ていた。イエスの語る話を聞いていた。病を癒す力を見ていた。悪霊を追い出す力を見ていた。イエスに感謝していた。しかし、捕らえられたイエスのために自分たちは何もしなかった。何も出来なかった。「わたしたちはどうしたらよいのですか。」 どのような道を歩んだら良いのですか。ペトロは言います。今までの生活を捨てなさい。神様を思い、神様のみ言葉のうちに生きなさい。そして神様の子となる洗礼を受けなさい。洗礼によって罪の赦しを受け、聖霊によって歩み始めなさい。
イエスによって神様が生きておられることを知った、新しい世界への新しい出発が与えられたのです。

 イエスは言われます。羊の囲いに入るのに、門を通らなければいけない。羊は羊飼いを求めている。羊飼いは羊に会いに来る。羊飼いは羊の声を聞きます。羊の苦しみを、悲しみを、悩み煩いを聞きます。希望を与えます。生きる喜びを語ります。そして、一緒にいます。羊の囲いに入るのに、門を通らず、ほかのところを乗り越えて来る者がいると言う。その者たちは羊の何を求めて来るのか。羊は羊飼いの声を聞きたい。羊飼いの思いにつながっていたい。ほかの者が来ても、その者について行かない。ほかの者の声が心に入って来ないからである。イエスは言われます。わたしが羊を包む羊の門である。羊に会うためにはわたしの門を入りなさい。

 門を通らないでほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
ファリサイ派の人々の救いは律法の知識による道。ファイサイ派の人々は聖書を語ります。律法を語ります。知識によって与えられた道を歩む時、その知識が人を囲む枠となるのです。イスラエルが神の国となるために聖書、律法の枠を巡らします。イスラエルのどこに行っても、聖書の出来事があり、律法の戒めがあり、律法を守れない人、聖書から離れていった人々が取り残されてしまっている。知識によって救いがあるのではない。ファリサイ派の人たちはイスラエルの国の救いを求めているのではないでしょうか。
「救い」とは「主と共にいる」ことです。「神の命に生きること」ではないですか。羊飼いが羊に出会い、触れ、聞き、一緒にいる事です。一緒にいることが慰めです。力づけです。
すべての人がわたしの囲いの内にいる。すべての人にわたしは声をかける。

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 



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