「主の昇天」(A年) 説教
2011年6月5日・加藤 英雄師


安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って来た。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。……急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
婦人たちは急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。するとイエスが行く手に立っていた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
(マタイ28・1-)

 十一人の弟子たちはガリラヤに行った。ガリラヤは自分たちの故郷。ガリラヤで再び、イエスと出会う。このガリラヤが弟子たちの出発点となるのです。そして、イエスが指示しておいた山に登った。イエスによって指示されている山に登る。この山は山上の説教の山です。ご変容の山です。この山に登りなさい。この山でわたしと会う。低い山、高い山、たくさんの山があります。しかし、この山です。山は神様との出会いの場です。十一人の弟子たちはイエスと出会った。しかし、疑う者もいた。

 イエスと共にいたい。イエスと共に、イエスの歩かれた道を共に歩きたい。そして、弟子に呼ばれた。わたしたちは12使徒のうちの一人に選ばれた。イエスの言葉に従って、仲間の弟子と一緒にガリラヤに来た。わたしたちはここで、イエスに会うという。イエスが来た。疑う。12使徒の一人が復活を信じていない。  わたしたちは洗礼に与り、弟子に呼ばれている。復活を信じますか。

 神父の道はどうかな。主任神父に声をかけられた。清貧な生活をしたかった。貧しい生活をする。人のために貧しくなるのではないか。そして、神父とは、司教さんのもとで、神様の道を歩む。わたしは言った。「はい。神父への道を歩きます。」始めは神学校に入り、勉強をします。神学校の試験をする前に、教区の面接があります。担当の神父さんたちが質問をします。その中で、わたしは正直に言いました。ご聖体が信じられません。あのパンがキリストの体になる。外見はパン、普通のパンと変わらない。聖変化するとキリストの体になる。信じられません。パンが神様である。その神父さんが言いました。パンがキリストの体になる、これは信仰で知ること。信じる。しかし、今、分からなくてもいい。キリストのご聖体。これを忘れてはいけない。いつかきっと心と体でご聖体を受けとめるようになる。(今、ご聖体に神様を見ています。わたしの体を食べなさい。わたしはあなたの中に入る。ご聖体は神様の命、神様の愛。)
ずっと後になってから、聖書のこの箇所を見つけたのです。「疑う者もいた」
12使徒の一人が復活を信じていなかったのだ。超えることが出来ない溝があった。 イエスがわたしの主。イエスと共に生活したい。しかし、まだ溝がある。死んでも生きる命、復活の命を信じられない。言葉で信じているといっても、永遠の命を信じて、信仰のために死ねるか。命をかけて信仰の道を歩いているか。信仰に不十分な自分を知る。しかし、その時もイエスは一緒に歩いてゆこうと誘ってくださっている。分からなくてもいい。信じられなくてもいい。一緒に歩く。わたしが何であるか分かる。 「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」イエスの弟子となる。イエスとつながっている。イエスと呼び合う者となる。

 イスラエルはシナイ山で律法を受けた。イスラエルは神様のみ心、み言葉のうちに、神様のものとなった。イスラエルの民は声を一つにして答えた。「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」(出24 ・3) 今、新しいイスラエルはこの山から出発する。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいた事を守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」わたしたちは神である子イエスによって新しい律法を受け取った。互いに愛し合いなさい。隣人とつながる。愛によってつながり合いなさい。地の果てまで人と出会いに行きなさい。わたしはいつもあなたと共にいる。

 


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