「年間第14主日」(A年) 説教
2011年7月3日・加藤 英雄師


エルサレムに王が入られる。喜べ、大いに喜べ、王はろばに乗って来られる。王は神に従う者、軍馬を絶ち、弓を絶つ。この王は平和の王。平和が始まる。王は柔和な方、貧しい方。わたしたちはこの方にイエスの姿を見ます。

ヨハネは弟子を送って、イエスに聞きます。来るべき方はあなたなのでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか。ヨハネの弟子が帰るとイエスは語られます。あなたがたはヨルダン川に行った。何を見るために行ったのか。預言者か。そうだ、預言者以上の者である。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」と書いてあるのは、この人のことである。実は、ヨハネは現われるはずのエリヤである。
また、悔い改めない町を叱り始めたのです。裁きの日にはソドムの地のほうが、お前たちよりまだ軽い罰で済むのである。(マタイ11・2-)

イエスは祈ります。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」
わたしたちが幼子のような心を忘れてしまった。知恵を求めている。霊性を求めている。神様を知る。知識によって知る、霊性によって神様と出会う。知識によって神様を知ることが出来る、神様を知っていると言う、深い祈りによって神様と出会う、神様を知っているという。神様を知っている? 知識のフィルターを通して神様を見ている、祈りのフィルターによって神様を見ているのではないか。神様と出会う、神様を知る―神様の温かさを心と体で感じる、喜びが、平安が静かに住む、体が隣人のために働き始める。神様と出会った時、神様の憐れみが、慈しみがその人を襲いその人を包む。幼な子に言います。勘様はわたしたち一人ひとりを包んでくださる方。そして、わたしたち一人ひとりに心と体に入って来られる方。そんな不思議な、不思議な、何でも出来る方なんだよ。すべての上におられる方、人の考えられないくらい大きな宇宙の上におられる。その神様が砂粒よりもっともっと小さな地球に住む、ほんの小さな一人ひとりの人の中に入って来られる。

父に向かって歩きましょう。イエス様、わたしたちはどこで父に会えるのですか。幼な子のような心を持っていません。イエスは答えられます。子は父を知っている。すべては子に任せられている。わたしのもとに来なさい。
疲れている者、重荷を負っている者は誰でもわたしのもとに来なさい。律法を知らないといって苦しめられている者、重荷を負わされている者、その重荷をすべて神様にささげなさい。そして、隣人のための重荷を負いましょう。隣人のための重荷、愛をささげものにしましょう。わたしのもとで休みなさい。教えられた律法に縛られるのではなく、わたしのくびき、わたしの示す律法を負いなさい。父のみ心である律法を学びなさい。

天地の主である父。神様はわたしたちの父ではないか。父は子を捨てる事はない。どんなであっても子は父の子ではないか。

わたしと一緒に父に向かって歩いてゆきましょう。

 


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