「年間第18主日」(A年) 説教
2011年7月31日・加藤 英雄師

 

  おーい、渇いているかい。ここに水がある。泉が湧いている。ここに来て飲むがいい。この水は命の水。イエスはヨハネの福音書でいわれました。渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7・37-38)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。しかし、わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4・14)
飢えている者。穀物を求めて食べよ。心と体を造る食べ物を食べよ。飢え渇く者よ、来なさい。命の水のあるところに、命を支える食べ物のあるところに来なさい。苦労して稼いだお金で心と体の糧とならない食べ物、飲み物を求めてはいけない。あなたの食べている物は体をこわす物、心をこわす物。体が喜ぶように味がつけられている。心の欲求がその食べものを求めている。わたしに聞き従いなさい。善いものを食べ、善いものを飲みなさい。
さらに言います。銀を持たないものはここに来て食べなさい、飲みなさい。お金が要らないという。この食べ物、飲み物はお金で買って得られるものではない。貧しい者よ、ここに来て食べ、飲みなさい。貧しい者とは、今、飢えている、今、渇いている。神様に飢えている、神様に渇いている者です。
今日の第一朗読、イザヤ書は捕囚民に語っています。捕囚の民はバビロンで豊かな生活をしている。しかし、神殿がない。礼拝がない。信仰生活を送ることが出来ない。捕囚民は神様に飢えている、渇いている。

わたしたちは捕囚民ではない。しかし、わたしたちは本当に自由ですか。自由に祈っていますか。自由に神様を見つめていますか。今、わたしたちは物の世界にいる。お金の世界にいるように思います。物の世界の捕囚民、お金の世界の捕囚民ではないですか。物の世界に閉じ込められている。お金の世界、名誉の世界に閉じ込められている。わたしたちはこの社会の捕囚民ではないでしょうか。わたしたちは自分たちの造った世界の捕囚民。捕囚から脱します。いのちの水を求めます、命のパンを求めます。

預言者はいつの時代でも、人々から迫害され、王、高官から苦しみを受け、あるときは追放され、ついには殺されてゆきます。ヨハネが首をはねられました。イエスはこれを聞きました。ヨハネの死を知りました。死を悼みました。そして、自分も預言者であることを新たに強く思ったのです。イエスは舟に乗り人里離れたところに退かれました。舟は教会と考えていい。人里離れたところは荒れ野です。食べ物がない。人里離れたところでイエスは祈ろうと思い、舟に乗って出かけようとした。人々はイエスが自分たちを離れて行こうとしているのを見、弟子のようにイエスに従った。イエスは、大勢の群衆がわたしについて来るのを見た。皆、飢えている、渇いている。神様を求めている。平安を求めている。生きる命を求めている。イエスは憐れみました。イエスは群衆の姿に深く心を動かされたのです。
夕暮れになりました。食事の時間です。群衆を解散させてください。自分たちで食べものを買いに行くでしょう。イエスは言われます。行かせることはない。みんなと一緒に食事をしましょう。荒れ野で人々に食事を与えるイエスがおられます。そして、夕暮れ時です。マタイはここにイエスの最後の晩餐の姿を見ているのです。

五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子いたちにお渡しになった。

イエス様が与えられたパンを弟子たちが人々に与えました。すべての人が食べて満腹しました。残ったパンのかけらを集めると、十二の籠いっぱいになりました。

お金で買えないパンがここにあります。命の水があります。わたしのもとに来なさい。はい、イエスのもとに帰ります。

 


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