「年間第21主日」(A年) 説教
2011年8月21日・加藤 英雄師

 

  神様はシェブナに言われます。わたしはお前をその地位から追う、その職務から退ける。シェブナはどんな人だったのでしょうか。ヒデキア王の書記官であり、力を持っていました。宮廷の実力者、宮廷を支配していました。豊かな生活をしていました。亜麻布長服を着、飾り帯を身につけている、これらは大祭司、祭司、高官の着る衣装でした。そして、宮廷の費用で王に勝る墓を作る、自分のために豪華な馬車を造ったのでした。主は言われます。宮廷をお前にではなく、ヒルキアの子エルキアムに任せる。お前に与えていた支配権を彼に与える。エルキアムはエルサレムの住民とユダの家の父となる。神様は彼の肩にダビデの家の鍵を置かれたのです。エルキアムはイスラエルの栄光の座に着いたのです。イスラエルの道を歩む。人々をイスラエルの道に導くのです。
信仰は神様を見つめる、神様のみ心を行う姿ではないかと言われているように思うのです。血筋ではない。ふと、ルツ記を思い出しました。ルツはモアブの女。ボアズがその信仰のゆえにルツを娶った。そして、ルツの子はオベド、オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父なのです。                       

イエスはフィリポ・カイザリア地方に来ました。フィリポ・カイザリアには異教を祀った神殿が建っています。イエスはフィリポ・カイザリアで神様を語られた。病を癒したかも知れません。この地、フィリポ・カイザリア地方に住む人たちは神に何を求めているのか。イエスの姿がどう映っているのか。
イエスは弟子たちに尋ねます。人々は人の子のことを何者だといっているか。わたしを見て何者だといっているのか。弟子たちは言いました。イエス様、人々はあなたを洗礼者ヨハネだという人がいます。ヨハネは首をはねられ、今はもうこの世を去ってしまっていますが、ヨハネは終末の預言者エリヤではないかといわれていました。イエスは力あるそのヨハネの再来だ。また、エリヤだとか、「預言者の一人」だと言う人がいます。エリヤはメシアが到来する前に、主の日が来る前に遣わされる大預言者です。そして「預言者の一人」といわれる方、この預言者は神が特別に立てられる者。モーセのように力強い預言者。 彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。(申命記18・15-)
人々はイエス様が来ると、イエス様を見る、イエス様を囲む、話を聞く。しかし、わたしと一緒に歩く者、わたしの中に入ろうとするあなたたちはわたしを何者だと言うのか。シモン・ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」ペトロ、あなたは幸いだ。あなたに天の父の力が働いている。ペトロ、あなたは岩。あなたの、この岩の上にわたしはわたしの教会を建てる。天の父の御心のまま生きなさい。天の父を信じ、キリストを信じなさい。人の信仰のうちに教会が生き、働くものとなるのです。
教会―エクレシア―とは「呼び集められ者たちの集まり」と言う意味のようです。神様のみ心によって集められた者たち、キリストを求める人たち、キリストに従う者たちが呼び集められた神様の場、神様の拠点。神様の御心を行うために神様から与えられた荷物を背負う者たち、神様のために働く者の拠点です。教会で神様と深く出会い、神様を知らない人に神様を示す出発の場です。教会はキリストの体です。教会の内にいつもあなたたちと共にいる。

教会から出発する。その時が天の国への出発です。



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