「年間第22主日」(A年) 説教
2011年8月28日・加藤 英雄師

 

  神様はエレミヤを預言者とした。主は言われる。わたしはあなたを母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、預言者として立てた。
エレミヤは答えます。わたしは若者に過ぎません。言葉を知りません。
主は言われます。あなたはわたしの預言者。あなたの思いを語るのではない。わたしが授ける言葉を語るのです。わたしはあなたと共にいる。(エレミヤ1・4-10)
エレミヤは預言者として神様の言葉を語ります。しかし、人々はエレミヤの言葉を聞こうとしない。反って、エレミヤに反発する。エレミヤはわたしたちの生活を壊す。エレミヤの言葉はわたしたちを不安にする。エレマは語っていたのです。主よ、人々は神様の御心を思っていません。神様に逆らって、自分の生活を豊かにしようとしています。なぜ、悪の道を行くものが栄え、神様の教えを守る人が貧しいのですか。
今日、エレミヤは神様に訴えます。主よ、あなたはわたしを惑わした。あなたの聖なる者にするという言葉、あなたの僕となる栄光の内に神様と共にいる平安が与えられると思っていた。あなたはわたしを捕らえた。わたしはあなたの者。あなたのものであるために一日中笑いものにされている。お前は子供のように、考えられないほど純粋に神様の御心に従えという。一切暴力を振るってはいけないという。しかし、人々がどのように嘲っても、わたしは「不法をやめなさい、暴力で解決してはいけないと叫ぶのです。」
主の名を口にすまい、もう主の名によって語るまいと考えても、主の力によって語らざると得ない。主が言葉を語られ、わたしの中に入るとその言葉が火のように燃え上がるのです。主よ、苦しみばかりでなく、あなたと共にいる喜びを注いでください。

エレミヤはどんなに苦しくても、神様から授けられた言葉を語らざるを得ない。神様のうちに真理がある。神様の言葉が本当の喜びへと導いてくれる事を知っているからです。

自分の体を聖なる生けるいけにえとして献げなさい。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9・13)
「神を愛し、隣人を自分のように愛することはどんな焼きつくす献げものや、いけにえよりもすぐれています。」(マルコ12・33-34)
聖なるいけにえ:神様の求めるいけにえとなればいい。
生きるいけにえ:わたしがいけにえとなる。神様を思う心と体として神様に献げる。神様の道具となる。

イエスは弟子たちに問います。「あなたがたはわたしを何者だというのか。」
シモン・ペトロは言います。「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ16・15-) イエスはご自分の歩むべき道を話されます。わたしは必ずエルサレムへ行き長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する。これは神様の思い。
ペトロはこれを聞いて驚いた。イエスは神の子。神の力のうちに人の上に立つ。イエスによってイスラエルが新しいダビデの国となる。それなのにイエスは何を言っているのか。ペトロはイエスをわきへお連れして、叱り始めた。「主よ、とんでもない事を言わないでくださいよ。そんなことがあろうはずがありません。」 イエスは言われる。「サタン、引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」 イエスのゲッセマネでの祈りを思い浮かべます。父は言われた。この杯を飲みなさい。イエスは天の父から十字架を背負って歩きなさいと言われたのです。その杯を遠ざけてください。イエスは父に願う。父は言われる。あなたはわたしの子。わたしに従いなさい。イエスは「はい」と答えた。この道を歩きたくない。しかし、その道を歩く。それは父のみ心。ペトロは言うのです。神の子イエス様、そのような苦しい、惨めな道を歩いてはいけません。イエスは言います。お前はわたしの邪魔をする者。この苦しい道を行かせまいとする。天の父のみ心に異議を唱えている。サタン、引き下がれ。ただ神のことだけを思いなさい。
天の国、神様の栄光への道は苦しい道です。自分を空っぽにしなさい。欲求を節制する。欲求の力を奉仕の力とする。いのちさえ生けるいけにえとしなさい。神様のために生きるのです。神様のためにこの命がある。自分を捨て、神様につながって生きる。

神様の前で自分は何者か考えてゆきます。苦労、困難を与えられるのはサタンではない。神様のみ心です。神様と出会うために、自分を捨て、自分に与えられた十字架を背負ってイエスに従います。



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