「年間第23主日」(A年) 説教
2011年9月4日・加藤 英雄師

 

  神様は言われます。「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。」
人の子はエゼキエルです。しかし、今、ここを読むわたしたちはこの言葉を、自分に向けられた神様の言葉として受け取りたいのです。わたしの目を持ってイスラエル…信仰を持って歩む民…を見つめなさい。イスラエルが正しい事を喜び、悪い事を戒めているか。いや、それ以上にイスラエルが悪の道を歩んでいないか。 今、神様は見張り人・わたしを通して、イスラエルに語っている。見張り人は神様の言葉を聞くもの。神様の心を知るもの。神様の思い、神様の言葉をイスラエルの人々に伝えなければならない。

見張り人は神様の言葉を伝えるだけでなく、神様の思いを告げ、その人を導きなさいと言われているのです。神様が悪人に向かって、「悪人よ、お前は必ず死なねばならない。」と言うとき、あなたはわたしの言葉をその悪人に告げる。悪人への警告と同時に、今のその悪の道を離れるように語らないなら、悪人が自分の罪のために死んでも、血の責任はお前の手に求めると、主は言われるのです。主は問います。あなたの目の前にいるその悪人はあなたの何ですか。悪人が悪の道を離れようとしないとき、その悪人はあなたにとって何ですか。あなたはその悪人にかかわっているのではないですか。自分の息子が悪い道から離れない時、父親であるあなたは何ですか。神様は言われるのです。わたしの思いは悪人が立ち返ることです。

神様は言われます。すべての命はわたしのもの。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。(エゼキエル18・4) しかし、わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。(エゼキエル33・11)

わたしたちは悪人が正しい道を知るように働く見張り人ではないでしょうか。

互いに愛し合いなさい。愛はつながりです。温かさ、安心のつながり。たとえ悪の道に染まっても、また語り合えることを信じ、帰ってくる時を待っています。 愛をギリシャ語でアガペーと言います。キリスト者は共同体の食事をアガペーと言うそうです。神様から与えられたものを、人が育て、刈り取り、それを料理して食べる。仲間と一緒に食べる。大地の恵みを感謝します。労働の実りを味わいます。支えあっている喜びがある。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」
罪って何ですか。
① 誘惑に負けて、自分が得するために人を傷つけてしまった。
② 善い事をしようと考えない。
③ 神様のことを考えない。自分の欲が働いている。
④ 支えられている事が見えない。見ようとしない。
正しい事を行っていない…それが罪となる。自分だけの世界を楽しんでいる。

兄弟がわたしを傷つけた。わたしとの仲を切った。一緒に祈りなさい。何を求めていたのかを聞きなさい。罪を犯したからといって、あなたもその兄弟とのつながりを切ってはいけない。その兄弟の言い分を十分聞きなさい。その兄弟の苦しさを味わいなさい。冷えた心を温める。その兄弟が神様を知らないものにしてはいけない。

神様のみ心を行う集まりが教会。教会に神様のみ心を見る。神様の温かさを見る。思いやりの力を見る。教会の力が社会に広がる。
「あなたがたが地上でつなぐ事は天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことが、天上でも解かれる。」
教会がつなぐことは、教会が解く事は人の思いでつなぐ、解くのではない。神様の思いでつなぐ、解くのです。教会はイエスの体。わたしたちは教会の煉瓦。

イエス様によって集められた教会が罪を清め、平和の味わいを示すことが出来ますように。




戻る