「年間第24主日」(A年) 説教
2011年9月11日・加藤 英雄師


 

  憤りがある、怒りがある。憤っている時、怒っている時、その相手の顔が見えなくなっている。相手の心が見えなくなっている。相手の不正が自分を憤らせている。相手の不正に怒っている。憤ると、怒ると神様のことなど全く考えていない。悪に対して悪で応対しているのではないでしょうか。
また、ひどい不正で深く傷ついてしまった時など、あいつに復讐してやろうと思ってしまう。 「復讐する者は、主から復讐を受ける。」 復讐はあなたの怒りの発散ではないですか。感情が、欲求が復讐を求めている。相手を傷つける事だけを求める、復讐して自分が安心する。主は言われます。それは罪です。

陰口を言われる。馬鹿にされる。誤魔化される。苦しめられる。それらを全部受け取りなさい。陰口だな。そんな風に言われているのか。馬鹿にされる。もっともっと勉強するよ。誤魔化される。あいつそんなに困っているのか。……不正をおおらかに受け取ります。隣人は敵ではありません。仲間ではないですか。兄弟ではないですか。不正をそんなに怒るあなたはどれほど正しいのですかと聞かれてしまう。あなたの目には「おが屑」はないのですか。わたしたちは皆、不十分な者です。足りない人間が支えあって生きるのです。仲間のため、兄弟のために損をするのは当たり前ではないですか。隣人に怒りを抱かない。
「自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。」「他人のおちどには寛容であれ。」

怒る事は仲間である絆を切る事です。人を赦すとは一緒を取り戻す事です。

ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
ユダヤ教では兄弟を赦す回数は三回だったようです。(仏教でも、仏の顔も三度までなどと言われます。)ペトロは七度までだったら、このくらいおおらかに相手を受け取れば、十分ではないかと考えました。イエスはペトロを見つめて、苦笑いをしながら言われます。七階どころか、七の七十倍まで赦しなさい。赦すとは数えて赦すのではない。赦す心を持つのです。その人を受け取る、赦す心を持った時、赦すという事が分かります。仲間を大切にする。赦すとは一緒を取り戻す事です。
天の国は「赦された喜びの世界」です。

わたしたちは神様に呼ばれたその日、人生の決済をしなければなりません。あなたには一万タラントンの借金がある。返済しなさい。一万タラントン。大変な金額です。一タラントンは六千デナリオン。一デナリオンは一日の賃金。一デナリオンを一万円とすると、一万タラントンは六千億円になる。あなたには六千億円の借金がある。それを返済しなさい。えっ、六千億円ですか。あなたの持っているすべてのものを売り払って払いなさい。自分を売る、妻を売る、子供も売り払いなさい。このだらしなさがあなたの人生です。多くの恵みが注がれた。しかし、何の実も生まれなかった。家来はひれ伏してしきりに願った。「どうか待ってください。きっと全部返します。」 主君はその家来を赦され、借金を帳消しにしてやった。この家来が外に出ると、自分に百デナリオン借金している仲間に出会った。百デナリオンは百万円ぐらいです。 「おい、お前、借金を返せ。」 仲間はひれ伏してしきりに願った。 「待ってくれ。返すから。」家来はこの仲間を赦さなかった。金を返すまでと牢に入れた。

仲間たちは心を痛めた。主君にその出来事を告げた。

主君は家来を呼び寄せて言われた。お前の憐れみはどこに行ってしまったのか。お前はあの莫大な額の借金を全部帳消しにしてもらったのではないか。わたしの憐れみをお前は感じなかったのか。お前には仲間がいるのか。赦されていることを感謝しない。いや、赦されている事を感じない。そして、赦そうとしない。

赦す。我慢して、忍耐して赦すのではありません。その人とつながる事です。失敗、罪はその人の出発、そこからの出発です。赦すとは一緒に歩く事です。

神様に向かって一緒に歩んでゆきたいと思います。



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