「年間第27主日」(A年) 説教
2011年10月2日・加藤 英雄師


ぶどう園がある。肥沃な丘に、石が除かれ、よく耕されている。ぶどうが植えられた。豊かにぶどうが実る。善いぶどうが実る。期待して待つ。そして、ついにぶどうが実った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうだった。肥沃な土地なのに、丁寧に手入れをした、手落ちはないのに、このぶどうは使えない。

ぶどう園は神様の畑。肥沃な丘の上=神様の恵みが豊かな、丘の上にある畑。ぶどう園はエルサレム。神様は言われます。わたしはこのぶどう園を見捨てる。畑は雑草の土地となる。また、雨を降らせるなとわたしは命じる。ぶどう園は干乾びる。死んだ土地になる。 ぶどう園は万軍の主の造られたイスラエルの家。神様を信じる者のために与えられた畑。神様の恵みが注がれ、光の内にある土地であったのに、その土地は枯れてしまう。植えられたぶどうは、神を信じる人々イスラエルは命の実を結ばなかった。主は回心を待っていたのに、自分たちの欲求が起こす争いの流血がある。正義の行いを待っておられたのに、苦しむ者の叫び声がこだましている。
あなたがたはぶどう畑のぶどうの木。こんなに豊かな恵みが与えられているのに実を結ばない。神様はあなたのどこにいますか。あなたは神様のみ心、み言葉を受け取っていますか。

使えないぶどうが実った畑を神様は捨てると言われました。神様がご自分の畑を捨てる、民を捨てる。神様に取ってこれ以上に悲しいことはない。これ以上に苦しい事はない。そうまで言わなくてはならない。イスラエルの民に厳しさを示しているのです。

神の国とは何ですか。イエスは神の国について、商いをする商人たちを追い出された話、ぶどう園で働きなさいと言われた兄弟の話をされました。
そして、今日、もう一つのたとえを話されたのです。祭司長、民の長老たち、このたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作りました。収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送りました。だが、農夫たちはこの僕を捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。別の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで主人は自分の一人息子を送った。自分の一人息子ならば敬ってくれるだろう。農夫たちはその息子をぶどう園の外に放り出した。苦しめた。そして命を奪った。この話を読んだ時、この話はイエスの出来事だと気づきます。ぶどう園は神様のみ心の場。信仰の場。丘の上にあるエルサレム。あなたはぶどう園にはふさわしくない、エルサレムにいてはいけない、あなたは信仰の場にいてはいけない、苦しみを受けて命を奪われる。

主人はこの出来事をどうするだろうか。 その悪い者たちをひどい目にあわせて殺すに違いない。 イエスは詩編118・22-23を語るのです。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

イエスはエルサレムにお入りになった。神殿は祈りの家ではないかと叫ばれた。神殿を商いの場にしている。あなたがたにとって神殿は何の場なのか。賑わいがあるが、神様が見えない神殿になってしまっているではないか。また、イチジクの木の話をなされた。茂っているこのイチジクの木に実がなっていない。賑わいがある信仰の木に実がない。お前は信仰の実を結ばない。その実を食べてはいけない。これらの話はみな神の国のたとえ。ある人に二人の息子がいた。兄と弟。父は言う。ぶどう園で働きなさい。父に思いは何ですか。ぶどう園は兄と弟にとってなんですか。嫌ですと言った兄は後悔、回心してぶどう園に行った。はいと元気よく答えた弟は行かなかった。
そして今日、イエスはぶどう園、悪い農夫のたとえを話された。自分の生活を求める農夫には神の国が見えない。
使えないぶどうの実った畑は捨ててしまう、と主は言われた。また、主人の息子をひどい目に合わせ、殺してしまった農夫を、主は、殺してしまうに違いないと祭司長や民の長老は言う。そうではない。神の国を求める者がふさわしい思い、行いに道を歩む。荒らされたぶどう園をもとのぶどう園に戻るように回心して働くのです。ぶどう園に希望がある。ぶどう園に神様の温かさがある。そして、主の独り子、イエスを殺した者たちに隅の親石の尊さを学ぶのです。
イエスこそ、ぶどう園の主。信仰の家・エルサレムの親石。

祈りの家で祈ります。イチジクの木のふもとで休みます。ぶどう園で働きます。そして、イエスから示された神の国への道を歩みます。



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