「年間第30主日」(A年) 説教
2011年10月23日・加藤 英雄師


 

  エジプトから脱出したイスラエルは今、荒れ野を歩いている。イスラエルは40年の間、荒れ野を歩む。これは神様から課された修業の旅のように思えてなりません。「わたしが示す地」に行く道のり。荒れ野の道で起こる出来事をすべて受け入れなさい。イスラエル、あなたがたはいかに多くの恵みが与えられたかを思い起こしなさい。そして、自分たちが神様の恵みに対していかに我儘だったか、いかに不誠実であったかを思い巡らしなさい。むしろ、神様からの恵みを少しも覚えていない、生きている自由を考えようとしなくなっている。 
困難にあっている人たち、寄留者、寡婦、孤児を迫害してはいけない。頼る者のいない彼らをいつも心にとめていなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留者、寡婦、孤児だったのではないか。もし、かれらがわたしに向かって苦しみの叫び声をあげるなら、わたしは聞く、そして、その叫び声に必ず答える。わたしは憐れみ深いものだからである。
貧しい者があなたに何か求めるなら、与えなさい。人は一緒にいて、支えられて生きていることを忘れてはいけない。求めている。持っている者はいつも求められている。持っていない者から生きるに必要なものを求められている。そして、持っていない人に求めていたものが与えられた。生きることが出来る。嬉しい。その喜びを知る。与える事こそ恵み。与えることの喜びを知るのです。

イエスがサドカイ派の人々を言い込められた。それはこんな出来事でした。
サドカイ派は、復活はないと主張しています。サドカイ派の人たちがイエスに問いました。子がない夫が死んだとき、夫の弟がその女の人を妻として迎えなさいと言われています。弟も子のないまま死にました。さらに3人目、4人目と7人目まで夫となった人が死んでしまいました。復活の時、この女の人は誰の妻になるのでしょう。イエスは答えて仰せになりました。復活の命はこの世で生きるのではない。神様の、新しい命に入るのです。復活の時にはめとる事も嫁ぐ事もない。神は生きている者の神なのだ。

ファリサイ派の人々は一緒に集った。わたしたち皆でイエスを取り囲もう。わたしたちの信仰の網で逃げ場をなくしてしまおう。ファリサイ派の律法の専門家がイエスを試すために尋ねました。先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。イエスは言われます。全力、全身で神を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。神様の思いは、神様の掟は「生きなさい」ということです。

掟:あなたは無理をしてでも、わたしの命ずる事を行わなければいけない。
ファリサイ派の人々の掟とイエスの掟は違います。ファリサイ派の人々は神様から命じられた事を全力で行う。それが信仰。イエスは言われます。掟とは命令を行う事なのですか。そうではない。掟は神様の恵みです。生きることそれが掟です。生きることは喜ぶ事。生きることは愛する事。愛されている事を知り、深く愛を感じ、愛さざるを得ない。神様を愛す。隣人を愛す。こんなに与えられている、与える者となる。与えられている事が恵みだと思っていた。しかし、そうではない。与えることが恵み。恵みをくださいとは、もっと与えることが出来ますようにという願いです。

神様を愛しなさい。
神様を思い巡らす時、神様の偉大さを感じます。思いもつかない大きさを持っておられる。人が神様によって生きている。人に必要なものはすべて神様が用意してくださっている。神様が、わたしはお前を見つめている、お前を愛しているといわれるのです。神様の光を感じます。温かさを感じます。この恵みによってわたしたちは包まれている。神様を愛さざるを得ない。
隣人を自分のように愛しなさい。
何も出来ない時に支えられている。支えられている自分がいる。苦しんでいる人がいる。慰めるのは当たり前ではないか。悲しんでいる、力づけたい。手助けする。喜ばれる。その喜びに自分も喜ぶ。支えられている自分が支える者になる。隣人が生きる、そして自分が生きる。一緒に生きる。

神様を愛す。隣人を愛す。イエスが歩まれた道です。ご自分の持っておられたすべてをもって愛された。イエスの姿を見つめます。イエスに従って歩みます。




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