「年間第32主日」(A年) 説教
2011年11月6日・加藤 英雄師

 

  天の国の喜びはどのようなものですかと問われた時、神様と共に祝う食卓ですと答えます。招かれた者が皆、笑顔で集っている。静かな、和やかな食卓で心の温かさの詰まった物を食べる。光が溢れている物を食べる。清い水を飲む。体いっぱいに食べる、飲む。温かさ、光を食べるのです。聖霊を飲むのです。神様の食卓でますます「いのち」の喜びにあふれるのです。 
教会は毎日、毎週日曜日、皆をキリストの食卓に招いています。ミサに天の国の喜びを感じられたらいいと思います。

楽しい食卓はわたしたちの最高の喜びです。たとえば、春の日、屋外。そこには藤棚のようなぶどうの棚がある。日陰に少し大きめのテーブルを置く。おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、兄弟、姉妹そして孫が皆揃って食卓を囲む。皆で食卓の準備をした。テーブルの上にある物はみな神様の恵み、豊かな神様の恵みをお母さん、姉さんが料理した。神様に感謝。皆に感謝。食事中、会話が絶えない。語りながら、笑いながら、味わいながら食べる、飲む。楽しい食卓は家族一番の幸せです。

今日、婚宴のたとえが語られます。婚宴の喜びは特別なものです。天の国の喜びが婚宴の喜びにたとえられている。 十人のおとめたちが婚宴の手伝いに選ばれた。婚宴は夜行われるようです。手に灯を用意しながら花婿を待つ。花婿が花嫁を迎えに来るのです。花婿が花嫁を、花婿の家に連れてゆく。花婿の家で婚宴が開かれる。夜が更ける。花婿がなかなか来ない。おとめたちは皆眠ってしまった。

イエス様は婚宴のたとえで終末の厳しさ、終末の喜びを語られているのです。そして、終末をいかに過ごすかと問われているのです。
神様がこの世に来られた。イエスという青年、人となって、人々に神様の言葉を語り、病を癒された。わたしたちのために働かれたイエスは十字架にかかり、ご自分の命を神様への献げものとされた。人に本当の愛を示すため命を献げた。そして復活、わたしたちに復活の命、この世を超える力を、死を超える命を示された。神様はご自分のいのちを支払われて、人の尊厳を示されたのです。わたしの命にかけてもお前たちを愛する。
この時から、わたしたちは終末に入っているのです。

花婿が来るのが遅い。いつになるか分からない。おとめたちは眠ってしまった。花婿が来る時が終末の始まり。まだまだ来ない。そのうちに、終末を忘れてしまっている。わたしたちが眠っている。

十人のおとめ、わたしたちがいる、五人は愚かで、五人は賢かった。賢いとは神様の思いのうちに必要な事を実行する者です。愚かとは神様のことを考えず、求められていることを実行しない者です。夜、花婿を待っている。賢いおとめは油を用意していた。愚かなおとめは自分の油を用意していなかった。
その時が来る。花婿、イエス様を迎える。油が必要である。その時、あなたの油の火は燃えていますか。油はその人の光。他の人の油を借りるわけにはいかない。油はその人に神様から注がれている聖霊。自分の生きる力が、神様を見つめる力が聖霊によって燃え上がる。あなたは自分の油がありますか。油がない。燃えていない。 
その時、戸が閉められてしまった。戸があったことを、その時、改めて思い知る。戸が閉められてしまった。その戸は信仰によって開く。開けてください。お前は誰か。はっきり言っておく。わたしはお前を知らない。

神様を思い巡らしていますか。神様とつながっていますか。自分の油を持っていますか。今、終末を過ごしています。静かに燃えていたいと思います。

 



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