「王であるキリスト」(A年) 説教
2011年11月20日・加藤 英雄師

 

  今日、わたしたちはイエスが王であることを祝います。わたしたちもイエスに倣い、王である道を歩みたい。わたしたちも王職の役割が与えられているのです。王とは何かを考えてゆきたいと思います。

イエスが神殿の境内で、町の中で神様を語っている。人々はイエスの話に耳を傾け、心を動かしている。イエスは苦しむ人の、悲しむ人の話を聞いている。祭司長、律法学者、民の長老は言う。イエスの神はわたしたちの神ではない。イスラエルを守り、導いておられる神は律法によってわたしたちに語られている。律法の内に神はおられる。イエスは律法による神を語らない。むしろ、罪人…徴税人、姦通を犯す者と語りあっている。安息日に病人を癒している。民衆はイエスの回りに集まってくる。イエスは人々の心を掴んでいる。 イエスは邪魔者、イエスを取り除いてしまおう。

エルサレムの指導者たちがイエスを取り押さえた。
その日、イエスは鞭打たれ、真っ赤な血に染まった惨めな姿で、十字架を背負ってわたしたちの前を歩かれた。イエスは十字架を背負ってゲッセマネへの道を進まれた。イエスは十字架を背負ってゴルゴタへ行かれた。そして、ゴルゴタでイエスは十字架に釘付けされた。
人々はイエスが十字架を背負って歩く姿を見た。十字架で苦しむ姿を見た。イエスはローマに対する反逆者。十字架にかかっているイエスに神様の栄光の姿などどこにも見えない。神様からの救いの手などどこにも見えない。イエスは十字架の上で死んでいった。イエスは敗北者。

終わりの日、栄光の座にイエス・キリストが座る。一人ひとりイエスの前に立ちなさい。イエスが栄光の座に座られている王。人々にとってイエスは実に惨めな姿のうちに死んでいった。イエスは栄光だという。イエスは王だと言う。   栄光とは何ですか。王とは何ですか。

イエスがお生まれになった時、天使は羊飼いたちに継げた。 今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカ2・11-)
主メシアのしるしが飼い葉桶に寝ている赤ちゃん。本当の王である赤ちゃんの生まれるところは宮殿ではない。そしてイエスの生活:本当の王の生活は豊かなものではない。毎日、枕する所もない日々を送る宣教生活がある。本当の王は預言者として王から嫌われ、人々からも迫害される生活をする。王であるイエスは十字架を背負って人々の前を歩く。十字架につけられる。 本当の王様はわたしたちの思う王様とは全く違う。王様とは支配する人です。イエスは神様から送られた王様。人を支配する力を持つ方。支配とは世話をする事です。王は人々に対して一番世話をする人です。一緒に住む者の安心となる、頼れる大木となる事。世話をするように与えられたものを生かす責任です。 
第一朗読で主は厳しく言われます。イスラエルの牧者―イスラエルの王。あなたたちは自分の欲求のみを考え、それを満たしている。牧者のいない羊は散らされ、野獣の餌食になっている。羊を誰が守るのか。食べるものがない、飲むものがない。主なる神はいわれるのです。わたし自らが牧者となる。わたしの群れの世話をする。弱い者を力づけ、病にかかった者を癒し、傷ついた者に慰めを与える。道を外れたものを捜し求める。わたしはわたしの羊に平安を与える。生きる喜びが生まれ、感謝の心が豊かになる。
これこそまことの王であるイエスの姿ではないでしょうか。

栄光の座に座っておられるイエスは問います。
あなたは王の役割を行いましたか。その人が飢えている時に食べさせ、のどが渇いた時に飲ませ、着る物のない時に服を用意し、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねましたか。隣人を見ていましたか。求めている隣人を見ていますか。心が動き、出かけて行く時、その人とつながります。

あなたは愛を行いましたか。
生きるために求めている、そんな人を見つけた。食べられない人がいます。話したいけれど、話を聞いてくれる人がいない、そんな人がいます。心の支えになって欲しい、そんな人がいます。求めている。自分の目の前にいる。その時、体が自然に動く。その人に心が届く。物が届く。隣人を大切にしたいと思います。  

王であるキリストを祝います。わたしたちも王であるキリストの道を歩みます。



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