今日はイエス様の誕生を祝います。クリスマス、イエス様の誕生日です。世界中がイエス様の誕生日をお祝いします。今、わたしたちはこの教会で、イエス様の誕生日を祝う、少したつと別の教会でイエス様の誕生を祝います。いろいろな地方で、いろいろな国で、カトリック教会だけでなく、プロテスタントの教会もお祝いする。今日、明日、イエス様の誕生を祝い引きも切らず世界中が喜び祝う。世界中が「命の光」ろうそくで輝く。
神様がお生まれになった。その時、夜空に大きな星が現われたと聖書は記しています。でも、イエス様は宮殿で生まれたのではない。田舎の小さな小屋で生まれた。馬がいる、牛がいる、羊がいるそんな小屋だった。誰も気づかない。神様は羊飼いに声をかけられた。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
大天使ガブリエルのこの言葉を思い巡らしたいと思います。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう、これがあなたがたへのしるしである。」
王様が生まれた。この王様は馬、牛、羊のいる小屋の中で、飼い葉桶に寝ている。わたしたちの考えている王様の姿ではない。そしてこの王様の姿がわたしたちへのしるしだと言われるのです。王は力のある方。その力は何のための力ですか。その力を誇るのですか。自分の思いを成すためにその力を使うのですか。そうではない。与えられた力は隣人のために使うのです。人々のために、自然を生かすために使うのです。神様が赤ちゃんで生まれた。一人では何も出来ない。お腹がすいたようだよ。お母さんお乳をやっておくれ。寒そうだよ。毛布をかけてやろう。人が助けなければ、神様は死んでしまう。神様のみ心は、人が神様の思いを知り、その思いを行わなければ力とならない、神様の憐れみ、神様の愛、慈しみを行いなさい―と言われているのです。
羊飼いに神様は声をかけられた。
羊飼いは身分の低い人の役割です。たとえば、ダビデが王として選ばれたとき、サムエルはエッサイの家に行きました。息子を一人選び王としての油を注ぎなさいと主から言われている。それぞれ立派な青年。誰が選ばれてもおかしくはない。しかし、主はこの中にはいないと言われる。エッサイに他にいないのですかと問う。末の子が羊飼いをしています。その子を呼びなさい。そしてその子、ダビデに油を注がれたのです。兄弟の中に入れない末っ子でした。羊飼いの仕事をしていた。羊飼いが神様を見つめている。神様は羊飼いに目を留められたのです。頭の悪い者、貧しい者、体に不自由な者、頭の悪い事に、貧しさに、体の不自由さに誇りを持ちなさいと主は言われていると思うのです。貧しく生きます。貧しさに神様を見つめてゆきます。与えます、与え続けます。神様のために貧しくなります。体が不自由である。体の不自由さを思います。出来る、出来ないを思います。歩けない、手が動かない。足は何のためにあるのか、手は何のためにあるのか。話せない。言葉は何のためか。言葉とは何か。
不自由だから、不自由である不便さを考える。真剣に考える。不自由を与えられた神様に感謝。
神様が生まれた。王様として、小さな小屋で、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている。
イエス様、誕生日おめでとうございます。