「年間第5主日」(B年) 説教
2012年2月5日(4日夕)・加藤 英雄師


  第一朗読はヨブ記です。ヨブ記を読むといつも深刻になってしまいます。生きる、信仰生活を生きているか。自分は神様を自分のどこに置いているか。パウロは言われます。人は神殿。イエス様は、ご聖体となられたイエス様はわたしたちの体に入られる。イエス様がわたしたちの体を通して働かれる。それを邪魔しているのはあなたではないですか。
ヨブは頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかりました。サタンがヨブを好きなように苦しめているのです。ヨブの親しい友がヨブの病状を聞いて、訪ねてきました。しかし、驚きました。その姿はヨブを見ても見分けられないほどになっている。ヨブは言います。わたしの生まれた日は消え去れ。なぜ、わたしは母の胎内にいるうちに死んでしまわなかったのか。わたしに与えられた神様からの賜物は、希望のない、光のない、冷たい月日。苦労して夜を迎える。その生活が神様からの賜物。このまま生涯を終えて行く。神様、わたしの命を忘れないでください。わたしの命は神様、あなたの息。わたしは風のようにどこかに消えて行ってしまう。その時、わたしは二度と幸いを見ないでしょう。
ヨブは神様から見放されたと思っている。わたしにどんな非があるのか答えてほしい。しかし、神様は何も返事をなさらない。友人は言います。神様は正義。正義に反するものに苦痛を与えることを知らないのか。おまえは自分の知らないところで罪を犯しているのだ。この苦痛を受け取りなさい。
 神様は人がどんな状態であっても、人がどのような出来事に陥っていても、その人から目を背けることはありません。万が一、神様に背いたことを行ったとしても、神様はその人を心にとめておられます。その人が戻るのを待っておられます。

福音とは神様と共にいることです。生きる命を喜ぶことです。どんな苦しい出来事のうちにいても、神様と共にいる。それを信じることです。今日朗読されたところのヨブは苦しみのうちに、悲惨な状態のうちにいます。出来るならば、声をかけたい。ヨブ、福音を信じなさい。

イエス様はカファルナウムで一日を過ごされます。安息日、イエスは会堂にお入りになりました。聖書が読まれます。そしてイエスは教えられます。神様の御心を話されます。律法学者のようにではなく語られたと記されています。聖書の解釈ではない。律法の説明ではない。神様は今、生きておられる。今、わたしたちに声をかけられている。耳を傾けなさい。心の耳を開きなさい。会堂にいる人々はイエスの言葉に権威を見ました。イエスの教えに感動します。語られる話に心が動きます。
イエスは弟子たちと会堂から出ます。人々がペトロの姑(しゅうとめ)が熱を出して寝ているとイエスに告げました。イエスは彼女のもとに行き、手を取って起こされる。
会堂(教会)は拠点です。神様の思いが会堂から始まって、町に拡がって行きます。ペトロの姑の熱は下がりました。おばあちゃんに神様の癒す手が働いてくださった。おしゅうとさん、おばあちゃんは喜びました。お昼頃だったのでしょうか、会食をしましょう。
彼女は一同をもてなした。 「もてなし」の言葉は継続形で書かれているそうです。もてなす者となってゆきましたということでしょう。会堂のために働く者となっていった。世話をする者になっていったのでしょう。

夕方になって日が沈んだ。安息日は終わりました。

イエスのもとに町中の人々が病人を連れて集まりました。イエスは大勢の人たちを癒されました。 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところに出て行き、そこで祈っておられた。

ペトロと弟子たちがイエスを見つけました。「みんなが捜しています。」人々があなたを必要としているのです。言葉を聞かせてください。病を癒してください。
イエスは言われます。わたしは宣教のために来た。ほかの町や村に行こう。

イエスが語る。そこから神の国は始まります。イエスが病をいやす、悪霊を追い出す。そこから神の国が始まっています。
わたしを必要とするのではない。神様があなたを必要としている。

平和は神様と共にいること。信仰は神様から示された道を行くこと。
神の国は始まっています。



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