「年間第6主日」(B年) 説教
2012年2月12日・加藤 英雄師


 

人はエデンの園に住んでいました。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせました。この園の中にあるすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。蛇が女を誘惑します。決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。女は実を取って食べました。一緒にいた男にも渡しました。二人は善悪の知識の実を食べました。神様は言われます。って食べるなと命じた木から食べたのか。女は弁解します。蛇がだましたので、食べてしまいました。神は女に言われます。お前はわたしの言いつけを受け入れず蛇に従った。悪の世界、苦しみの世界を見ることになる。主は男に言われます。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。土は、これから、茨とあざみを生いいでさせる。だから、人は顔に汗を流して、苦労してパンを得るようになる。

アダムとエバは神様より蛇を選んだ。神様が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であったのです。知識があります。世の中で信用があります。よい生活を送っている。姿が格好良いものであったら、誰でも惹かれて行く。
わたしたちは苦難の生活よりも、貧しい生活よりも蛇を選んでいるのではないですか。

重い皮膚病にかかっている人がイエスのところへやって来ます 。重い皮膚病にかかっている人は町の外に住まわなければなりません。その姿を人々は不浄なものとしました。神様から離れていると思っていました。人々はその病気をうつされたくない、その人たちの姿を見たくない。その人たちも人に見られたくないのです。重い皮膚病にかかっている人の親、兄弟が食べ物を運んでいました。籠に入れて決めた場所に置いておきます。
皮膚病の人たちが町に入るときは、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れたものです。汚れたものです。」と呼ばわりながら歩くのです。(レビ13・45)
イエスがこの町に来ることを知った。イエスを待った。そしてついにイエスを見た。イエスのところに行きます。大きな決心です。イエスの前に膝間づいて願います。「清くしてください。」イエスはその人を見ました。その人の体、心を見ました。イエスは深く憐れまれました。  憐れむ:スプランクニゾーマイ…はらわたが動く。その姿を見てどうしようもなく、体が動いてしまう。心が動いてしまう。その人のその苦しみの中に入って行く。イエスは手を差し伸べ、その人に触れられました。「よろしい。清くなれ。」その時、その人は清くなったのです。誰にも何も話さないようにしなさい。行って、祭司に体を見せ、献げものを用意し、清めの儀式にあずかりなさい。
社会の中に入ります。家族に会えます。人々と一緒に歩くことが出来ます。

その人は嬉しくて仕方がありません。神様からの出来事が起こった。わたしは神様の恵みにあずかった。

人々はその人の体を見ました。その人の喜びを見ました。人々はイエスに癒す力を見たのです。イエスはむしろこの出来事を悲しみました。イエスの指の業が神の国の出発なのです。御言葉の世界の中で病が癒される。癒されることが神の国への招待状です。御言葉の中に入りなさい。神の国、ぶどう園で働く者となりなさい。その呼びかけが聞こえていない。

イエスはもはや公然と町に入ることが出来なかった。人々はイエスを求めてイエスのところに集まって来たのです。

重い皮膚病の人が癒されました。その人はイエスに出会いました。イエスの力を見ました。イエスの思いは自分の願い、自分の豊かさを求める願いから離れ、与えるものになりなさいということです。自分の豊かさを求める道は蛇が歩いている道です。イエスに出会って蛇の道を歩むのですか。
豊かさの中にいると、神様の憐みが見えなくなります。隣人が見えなくなります。自分が見えなくなります。

わたしたちは神の子です。お父さんの言いつけを守ります。神の子は強くありたい。強いがために弱いのではありませんか。人のために働く者、人を喜ばせるために働く者です。キリストに倣うものになります。



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