「四旬節第1主日」(B年) 説教
2012年2月26日・加藤 英雄師


 

神様は言われます。わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。……二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

神様はわたしたち人と契約を立てられました。契約を結ぶとは言わないで、契約を立てられるといいます。「立てる」とは「起き上がらせる」という意味を持ちます。契約のために働きましょう、力を与えましょうという御心のように思います。あなた方、人よ、あなた方は生きるもの、わたしの愛のうちに生きるもの、あなたたちを守ろう。この神様の思いがわたしたちに与えられた契約です。わたしはあなた方を見つめている、見守っている、二度と洪水によってあなた方を滅ぼすことはない。すべてのものはわたしの愛のうちにいる。わたしはあなた方とともにいる。

契約は新しい出発の大きな力、嬉しい力です。この資料は捕囚の時代だと言われています。神様、この苦しい捕囚は何なのですか。イスラエルは捕囚を見つめました。そうか、神様は捕囚のこの苦しみによって新しい出発を与えてくださったのではないか。悔い改めます。神様から与えられた道を歩みます。

イエスはガリラヤのナザレからヨルダン川に来られました。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。川の中に沈む。そして水から上がった時、天から「これはわが愛する子、わたしの心にかなう者」という声が聞こえました。神様の御心、神様の命の霊がイエスに降り注がれました。しかし、霊はイエスを直ちに荒れ野に導かれました。そこに40日間とどまりなさい。荒れ野は命のない場です。荒れ野を見つめる。自分を見つめる。神様を見つめる。荒れ野にいる自分は何か。生きるとは何かを思いめぐらす。食べること、飲むことの大切さを知る。イエスはサタンから誘惑を受けられました。生きるとは貧しくなることか、豊かになることか。あなたは神様によってここに導かれた。荒れ野は何もないところ。ここで生きることは出来ない。神様のために何もしないでここで死んでゆくのか。一方では、物のあふれる豊かなところがある。イエス。わたしの名によってそこに案内しよう。いや、あなたは自分で豊かに生活できる力を持っている。神様のために貧しくなって死んでゆくのか。それともわたし、サタンの思いのうちに豊かに暮らすか。
イエスは静かに神様の道を選ぶのです。

イエスが荒れ野にいる間、野獣と一緒におられたと書かれています。しかし、天使たちが仕えていた。ここに、イザヤ書の平和の王を歌う個所を見なさいと誘われます。
イザヤ11・1~9です。 
エッサイの株から一つの芽が萌えいで その芽から一つの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。 狼は小羊を共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く 牛も熊も共に草をはみ その子らはともに伏し 獅子も等しく干し草を食らう。……

ヨハネが捕らえられた。イエスはヨハネに自分の姿を見ました。ヨハネは偉大な預言者でした。捕えられ、命を奪われる。イエスは自分の役割の時を知ったのです。ガリラヤに行き、公生活に入りました。宣教の日々を送ります。福音を宣べ伝えます。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

40日間の荒れ野の生活は神様を見つめる時、神様と過ごす場でした。新しい出発の苦しみでした。
今こそ神の国の始まりです。神の国への道を歩のです

 



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