「四旬節第4主日」(B年) 説教
2012年3月18日・加藤 英雄師


 

  モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。
イスラエルは荒れ野を旅している。人々はもう耐えられなくなって、神様とモーセに言います。荒れ野で死なせる気ですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。その時、蛇が人々を襲いました。蛇は人々をかみました。多くの死者が出ました。モーセは主に祈ります。「蛇を取り除いてください。」主は言われます。青銅の蛇を造り、天に上げなさい。それを見上げれば、命を得ます。人をかんだ蛇を見上げなさいという。神様は何ということを言うのか。 実はこの蛇は神様が造られたもの。神様の思いのうちに人をかんだのです。蛇は何ですか。人はなぜ蛇にかまれたのですか。人が傲慢だったのではないですか。蛇は人の子。イエスが語ります。イエスは憐れみを示します。イエスの姿を見なさい。そのイエスに、イエスの姿にかまれたのではないですか。人の子イエスを取り除いてほしいのですか。いや、既にあなたがたはイエスを殺しました。蛇が皆に見られるように高く上げられたように、人の子イエスも高く上げられました。蛇を見上げたように、十字架に上げられた人の子イエスを仰ぎ見ることによって永遠の命が得られます。

神は世を愛されておられます。ご自分の命を懸けても守りたい。すべてのものにとって、この世が命を喜ぶ場となる。特に人を愛されておられるのです。
神様はご自分の命イエスをわたしたちに送られたのです。

神様は光をわたしたちの世に送られました。人は光を遠ざけました。わたしたちの前に光と闇があります。
光:イエスの生きる姿。 喜びの命、温かさ、ぬくもり、慰め、平安これらすべてが光です。光の力、光の恵み、光の場です。

イエスを信じる者は光の子なります。

闇:見えない。見ない。見たくない。隣人が見えない。見ない。見たくないのです。隣人ばかりではないのです、自然の温かさが見えない。自然の光が見えない。見ない。欲求がその人の体、心を動かしています。自分の中にある光の部屋を開けようとしない。光を求めない。光が閉じ込められている。社会が見えない。自分がどこにいるのか見えない。世界が見えない。自分の進むべき道が見えない。見ない、見ようとしない。

信仰はつながりです。生きるとはつながることです。つながることは愛することです。

罪は闇です。つながりがないのです。温かさがない、平安がないのです。人が見えない。自然が見えない。神様が見えない。いや、人を見ない、見ようとしない。自然、神様を見ない、見ようとしないのです。

イスラエルに捕囚という試練がありました。神様は繰り返し、繰り返し預言者を送りました。彼らは預言者の言葉を蔑み、嘲笑する、嘲り、愚弄したのです。イスラエルよ、聴く者になりなさい。 罪は悪の行いを楽しむことより以上に神様の耳を傾けないことです。神様の御心を一切受け入れない。神様を認めない。 偶像礼拝を認めたのは王です。王が第一に責められます。しかし、人々も偶像礼拝に走ったのではないですか。貧しい生活より豊かな生活を求めている。力を求めている。イスラエルの神様から離れて行くのを知りながら、自分自身の満足を求めていたのです。捕囚が終わった今こそ、神様への道を新たに歩んだのです。

キリストの姿に命がある。もう一度、キリストを見つめ直します。物によって、知識によって自分自身の満足を求めていると自分がなくなってしまうことに気づきます。何も持っていない、自分には何もない、そんなことに気づいた時、自分がいるのです。自分が支えられている、その力に気付くのです。すべての恵みに支えられている。

キリストから示された道を歩くとき、光を感じます。光に向かって歩いて行きたいと思います。



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