聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ説教
2012年4月5日・加藤 英雄師



 過ぎ越しの食事を記念して行いなさい。傷のない一歳の小羊を用意する。酵母を入れないパンと苦菜を用意して食べる。これが神の国へ向かって歩む出発の食事です。過ぎ越しとは主の滅ぼす者がエジプトの国を巡る、その時、小羊の血を塗った家を過ぎ越すということです。傷のない、罪のない小羊の血によって命が守られるのです。小羊はその人たちの命を守るために血を与える、自分の命を与えるのです。
わたしたちはミサを祝います。過ぎ越しの食事がミサです。弟子たちがイエスと一緒にした最後の過ぎ越しの食事、最後の晩餐がミサとなったのです。過ぎ越しはエジプトからの脱出の食事です。そして、ミサはイエスによる新しい国への出発の食事です。イエスが小羊。 最後の過ぎ越しの食事の時イエスは言われました。このパンがわたしの体、この杯がわたしの新しい契約の血です。わたしが過ぎ越しの小羊となります。人々の罪を背負って献げられるわたしの体、わたしの血です。この体、この血を飲むときから新しい契約が結ばれるのです。 イエスの道に従って歩みたい。あなたも神様のものとなりなさい。あなたは洗礼によって神の子ではないですか。傷のない小羊となるのです。自分のうちにある自分を捨てなさい。清められるということは自分を捨てる、自分を殺すことではないですか。イエスの体、イエスの血がわたしたちの中に働くとき、滅ぼすもの、罪から救われるのではないですか。  イエスは、この過ぎ越しの食事が弟子たちと祝う最後の時と知りました。弟子たちを愛し、愛し抜かれました。自分は去って行く。イエスは食事の前にご自分の愛によって弟子たちを清めようとされたのです。立ち上がり、上着を脱ぎ、手拭いを取って腰にまとわれました。たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いで拭き始められました。ペトロのところに来ました。ペトロは言います。主よ、わたしの足を洗ってくださるのですか。それは奴隷の仕事です。そんなことは決してなさらないでください。あなたはわたしたちの先生、主ではありませんか。イエスは言われます。わたしのしていることは今、あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。あなたがたも互いに足を洗わなければならない。
主が奴隷の姿をとられました。主がわたしたちに仕える者となられました。しかし、主イエスはそれ以上のことをされたのです。
わたしたち人は自分の生活、家族の生活のために、社会的安定のためにイエスを殺しました。いや、今も、イエスを殺しています。イエスは自分を苦しめ、殺した人のために命を献げられたのです。イエスは屈辱、嘲笑のうちに、苦しみの中で命を奪われました。命を与えられたのです。イエスはその時、恨み言は何もおっしゃらなかった。イエスは神様に言われました。彼らは何をしているのか分からないのです。彼らをお赦しください。
 今日は最後の晩餐、ミサの始まりを思いめぐらしています。イエスがわたしたちに愛を示されました。命を懸けてもあなたたちを愛す。わたしのように互いに愛し合いなさい。互いに相手のために働きなさい。命を懸けても相手のために働きなさい。
神様の御言葉です。イエスの御言葉です。



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