「聖金曜日・主の受難 説教
2012年4月6日・加藤 英雄師
 


  過ぎ越しの食事が終わりました。イエスが弟子たちと一緒にした最後の晩餐です。イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネの園に入られました。ユダが一隊の兵士たちを引き連れてイエスを取り囲みます。もみ合いました。シモン・ペトロは剣を抜いて、大祭司の手下マルコスに打ってかかり、右の耳を切り落としました。イエスは言われます。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。 杯:苦しめる事が迫っている。避けたい事がある。関わりたくない出来事が迫っている。苦しみも、悲しみもすべて神様からの出来事である。この出来事をすべて受け入れるべきではないか。すべての出来事が父からの杯なのです。わたしたちは喜びの恵みを待っています。しかし、苦しみの恵みがある。飲むべき杯です。
父がお与えになった杯は飲むべきものなのだ。すべての杯を飲む。そしてこれからの出来事が父からイエスに与えられた飲む杯の始まりなのです。イエスは杯を飲み始めます。

ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入りました。あなたはあの人の弟子ではないですか。ペトロは知らないといいます。再度問われます。ペトロは再び知らないといいます。鶏が鳴きました。最愛の弟子が去ってしまった。
イエスはピラトの前ではっきりと言われます。「わたしの国は、この世には属していない。…わたしは真理について証しするために生まれ、この世に来た。」 ピラトは言う。真理とは何か。 イエスはピラトのもとでローマに反逆するものとして死刑の判決を受けました。平手で打たれ、拳で打たれ、唾を吐きかけられます。イエスは十字架を背負ってゴルゴタの丘への道を歩かれました。刑場で十字架に釘付けされました。十字架のイエスは、人々に力のない王、自分を救えない救い主と嘲笑されます。
今、父が見えない。神様からの慰めが見えない。人々から見捨てられた。弟子たちは離れ去ってしまった。わたしを慰めるものは何もない。イエスは自らの苦しみを見ました。「渇く。」 イエスは主からの杯をすべて飲み干しました。

天の父はイエスの出来事をすべて見ておられました。イエスは自らを償いの献げものとしました。父はその献げものを受け取られたのです。

わたしたちはイエスの姿を見ました。イエスと出会いました。イエスの言葉を聞き、イエスの業を心にとめました。イエスに神様の姿を見ました。イエスは人のために遣わされた。人のために働く。ご自分の持っている時間、言葉、心、愛の情熱、優しさ、慰め、微笑み、力強さ、静けさ、ご自分の持っているものすべてをもってわたしたちのために働かれたのです。 イエスは言われます。わたしに従いなさい。天の父に従われたイエスを思います。自分を捨てて従う。自分に与えられた杯を飲みます。自然のために、人のために働きます。



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