「復活節第2主日」(神のいつくしみの主日)(B年) 説教
2011年4月15日・加藤 英雄師
  


  週の初めの日、日曜日、安息日が終わりました。朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に入ります。しかしイエスのご遺体はそこにはない。アリアは墓の外で泣いています。イエスがマリアに声をかけられます。マリア、わたしにすがりつくのはよしなさい。わたしは、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上る。マグダラのマリアは復活したイエスに出会いました。 
週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。戸は複数形で書かれています。家のすべての戸に鍵をかけているのです。戸の鍵は弟子たちの心の鍵です。自分たちの心に閉じこもっている。そこへイエスが来られました。真ん中に立たれました。「あなたがたに平和があるように。」みんなはびっくりしています。「わたしだ。」そして、イエスは手と脇腹をお見せになりました。弟子たちは大いに喜びました。みんなを包むように語られます。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。閉じこもっていないで、戸を開けなさい。語り合いなさい。おおいに人と出会いなさい。神様からの出来事、わたしの出来事を語りなさい。わたしの姿を語りなさい。そう言ってから、イエスは弟子たちに息を吹きかけられました。聖霊を受けなさい。命の霊を受けなさい。今、あなた方を創造する。新しい命に生きるものとなりなさい。神の国に住む者となるのです。あなた方は聖霊によって罪を赦すのです。だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。
 正直者のトマスはイエスが来られた時、一緒にいませんでした。何を言っているのか、主が来られたというのか。そんなことを信じられるわけがない。あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。
八日の後、日曜日、弟子たちは集まっていました。家の戸にはすべて鍵がかかっていました。イエスが来られました。トマスに会いたい、トマスのために来られたのだと思います。真ん中に立たれました。「あなたがたに平和がありますように。」戸を開けなさい。平和があるようにとは心の戸を開け始めることです。戸を閉めているとは困難を避けることではないですか。苦しむのが嫌だから閉じこもっている。むしろ、苦難、困難、憎むべきことを受け入れるようになりなさい。隣人のために苦労するのです。それが平和を造って行くことです。 イエスはトマスを見ました。そして言われます。「トマス、わたしだ。あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。」わたしが語った言葉を信じなさい。仲間の証言を信じなさい。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えました。「わたしの主、わたしの神よ。」 イエスは言われます。見ないのに信じる人は幸いである。

わたしたちは復活を信じます。見なくても信じます。信仰の仲間の証言を信じます。
生きておられる神様、今働いておられる神様を知りました。復活を知ったわたしたちは主イエスによる新しい世界を造って行きます。新しい創造の始まりです。



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