「復活節第4主日」(B年) 説教
2012年4月29日・加藤 英雄師


  第一朗読、使徒たちの宣教は、イエス様が天の国に上られた後も、教会の宣教活動が強く行われている姿が描かれているように思います。神殿の入り口に「美しい門」があります。生まれながら足の不自由な男の人がそこに座っている。足の不自由な男の人の友人が毎日、そこに運んでくれる、足の不自由な男の人は神殿に入る人たちに施しを求めているのです。ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時、神殿に入ります。その男がペトロとヨハネに施しを求めました。ペトロとヨハネはその男の人を見つめ、言います。「わたしたちを見なさい。わたしには金や銀はないが、持っているものを上げよう。イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」ペトロはその男の人の右手をとって彼を立ちあがらせました。人々はこの業を目の前で見ました。驚きます。ペトロとヨハネのところに集まって来ます。ペトロは言います。この出来事はわたしたちの力によって出来たのではありません。わたしたちには何も力はありません。そのようなことは何もできません。この出来事は神様からのものです。この癒しはイエスの名によって行われたのです。神様はイエスに栄光を現されました。イエスはわたしたちのために働かれ、神様をわたしたち示されました。イエスは神様のもの、聖なる方です。あなた方はこの方を十字架につけて殺してしまいました。しかし、わたしたちは、この方イエスが死から命へと移った姿、復活の姿を見たのです。イエスは神の命を生きておられます。永遠にのちに入っておられます。イエスの名のうちに平安があり、救いがあります。わたしたちはこのことの証人です。わたしたちは神様の掟―御心のままに語り、業を示しているのです。
この方こそ、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」(詩編118・23)です。神殿に使える石かどうか、家造りの者が調べます。この石は使えないと家造りの捨てた石を見つめなさい。この石は神様が選んだ石。この石によって神殿を造りなさい。家造りをする者たち、何を見ていたのですか。何を大切にして選んだのですか。この方によってまことの神殿が築かれるのです。

捨てられた石は良い羊飼いです。愛しなさい。羊飼いとして羊を愛しなさい。羊は野原で草を食べます。水を飲みます。野外には狼がいます。野犬がいます。羊泥棒がいます。羊を守りなさい。命を懸けて守ります。また、良い羊飼いは自分に任せられた羊を一匹ずつよく知っています。一匹一匹とつながっている。羊飼いは一匹一匹を見つめています。羊も羊飼いを知っています。羊飼いの声を聞き分けるのです。 
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」 この囲い:神様を知らない、知ろうとしない人たち。神様と出会う機会が与えられていなかった。心情的に神様をよいというが、何も行わない人たち。キリストを知らない人たち、キリストと出会っていない人たち。羊は神様が造られたもの。羊がどこにいようとその羊の命と出会うのです。羊を知ったら羊のために働かざるを得ません。良い羊飼いは命を喜びます。羊を愛します。愛は与えること。自分が持っている時間を与えます。ものを与えます。心を与えます。その羊のために、その人のために心を尽くして働きます。力を尽くして働きます。その人のために、その人が生きるため自分の持っているすべてを与えます。これこそ最高の愛の業です。
―父は苦しみの杯をわたしに与えられました。わたしはそれを飲みました。父はそれを見ておられました。良い羊飼いとして、わたしは命をかけ、愛を全うしました。―
一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。

教会は拠点です。教会はキリストの神様への愛、人への愛が働いています。すべてのものが生きる。喜んで生きる。教会から出て行きます。自然と出会います。人と出会います。自然を聴きます。人の心を聴きます。語ります。おおらかさを、慰めを、静けさを、笑顔を語ります。
わたしたちは羊です。わたしたちは羊飼いです。



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