「キリストの聖体」(B年) 説教
  2012年6月10日・加藤 英雄師


 イエスと弟子たちは過越祭を祝います。過越祭はイスラエルのエジプト脱出のを祝いです。奴隷であったイスラエルがエジプト王ファラオの力から自由になる。主はモーセを選び、言われたのです。わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、苦しみ叫ぶ声を聞き、その痛みを知った。わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地に導き上る(出エジプト3・7~)。
人は人を奴隷としてはいけない。人は人の奴隷となってはいけない。主はモーセを指導者に選ばれ、イスラエルはエジプトを脱出、神様によって導かれる土地に向かいます。40年の荒れ野の旅の始まりです。
イスラエルがエジプトを脱出する前の晩、出発の食事をします。羊の肉を火で焼いて食べる。酵母を入れないパン、種なしパンを苦菜を添えて食べる。 この主の過越を毎年、記念して行いなさい。イスラエルは毎年、過越しの食事をするのです(出エジプト12・1~)。

イエスはカファルナウムで人々に言われました。わたしは命のパンである。はっきり言っておく、人のこの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。(ヨハネ6・48~) 

イエスは弟子たちと過越祭を祝います。過越しの食事をします。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、弟子にお渡しになった。弟子たちはその杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

人は尊厳をもって、神様から注がれた命を喜び生きなさい。神様はモーセを通してイスラエルをエジプトから解放した。そして、40年の荒れ野の旅を強いられた。荒れ野で神様を見つめ、自分を見つめたのです。人は全く小さい者です。何もできない。生きることすらできない一緒に歩くことを知る。どこに行くのですか。神様の命じる所に行くのです。

イスラエルはモーセによって神様の道を歩みました。モーセはイスラエルを見下ろすモアブに着きました。しかし、神様はモアブでモーセを呼ばれました。モーセは120歳の生涯を終え、神様のもとに帰られました。

面白いといってもよいのでしょうか、イエスの名はヘブライ語でヨシュアです。ヨシュア―イェシュア―イエスースです。モーセの後継者ヨシュア…イエス…がイスラエルに土地を得たのです。

今、イエスはわたしたちを導かれます。イエスはわたしたちと共にイスラエルに住んでいます。イエスは言われます。わたしたちはこの世にいる。しかし、この世に属していない。悔い改めなさい。天の国は近づいた。天の国はすぐそこにある。わたしたちは天の国に入る。天の国へ旅立つ。

生きる。神様の命のうちに生きる。生きるとは愛することです。愛する…神様を愛する、神様の思いの内に生きます。神様を愛するとは人を愛する、自然を愛することです。人を愛する…その人のために働きます。自然を愛する…自然のために働きます。

イエスは言われました。わたしは命のパンである。わたしを食べなさい。わたしの命のうちに生きるものとなりなさい。

わたしを理解するのではない。わたしの言葉、わたしの業を理解するのではないのです。わたしの姿を心に刻むのです。今、わたしはあなたの食べ物となって、あなたの中に入ります。わたしはあなたたちを愛しました。過ぎ越しの出来事があった、そして、イエスの出来事を思い浮かべなさい。イエスの生涯。人を愛された。わたしたちは十字架の出来事を見た、復活の出来事を知った。それらの出来事を自分の出来事として受け止めなさい。

ご聖体。復活の命があなた方の食べるパンとなる。わたしを食べてください。わたしの姿を心に刻んでください。わたしの道を歩むことが出来ますように。

 

天の父の思いが、子を通して、聖霊によって成し遂げられるのです。見える物、見えないもの、万物は子にゆだねられ、聖霊によって造られたのです。

聖霊のことをあまり考えて来ませんでした。動かなければただ枠の中にいるだけです。たとえば、平和を考える、平和のために祈る。しかし、平和が何であるか、平和がいかに大切であるか考える。そこから、あなたは平和をどのように求めますか。それを自分に問うのです。平和は理屈の中にあるのではありません。平和は望みの中にあるのではありません。働きます。平和につながって行く。平和のために人とつながって行く。自然とつながって行く。動くのです。動く力が聖霊です。神様の力である聖霊です。キリストの平和へ導かれる力です。

やっぱりよく分からない。疑う。疑いなさい。あなたは何を疑っているか、何を求めているかはっきりするのです。自分の何を捨てることが出来ないかをはっきりしたいのです。しかし、何があっても捨てられないものがある。イエスを捨てられない。
ガリラヤの山の上で疑う弟子たちがいた。イエスは疑っている弟子たちにも声をかけられます。近寄られます。それ以上に、十字架のイエスを捨てて弟子たちは逃げ出した。しかし、復活されたイエスは、鍵のかかった家に集まっている弟子たちのところに現れ、あなた方に平和があるようにと挨拶されたのです。
つながっている。どんな時も、喜びの時、また、どんな苦しい時でも、理解できなくてもイエスにつながっている。神様に感謝できますように。

神様の名は父と子と聖霊です。


   


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