「年間第11主日」(B年) 説教
  2012年7月8日・加藤 英雄師
 


イエスは故郷ナザレに帰られた。家族に会う。アラム語には甥という言葉がないようです。兄弟のように育った幼馴染と会う。みんな家族。知り合いに会う。懐かしさを楽しむ。 安息日が来ました。イエスは会堂で聖書を読み、説教されます。会堂には村中の人でいっぱいです。イエスが聖書を読む、説教する。人々は驚きました。あのイエスが先生になった。会堂で神様を語っている。そして、体を癒したり、悪霊を追い出したりする奇跡を行うという。神様の言葉がイエスの体から流れ込んでくる。神様の力がイエスの体から出て来る。そんなわけの分からないことはあるはずがない。この人は大工ではないか。マリアの息子ではないか。兄弟たちはここでわたしたちと一緒に住んでいるではないか。イエスは何ものでもない。村の人々はイエスを自分の世界の中に入れてしまいました。 福音書は言います。人々はイエスにつまずいた。つまずいたとはイエスとつながっていないことです。今あるイエスを受け取ろうとしません。イエスが見えません。神様を語っているイエスが見えない。イエスを通して神様と出会うことが出来ません。安息日、会堂で、神様の言葉を聴こうとしない。信仰がない。イエスのもとに病を癒してほしい人が来ます。しかし、人々に神様を求める信仰が見えない。病は信仰のうちに癒されるのです。イエスは癒すことが出来ない。その時、人々の目には、イエスは故郷で病をいやす医者になってしまったのです。

イエスは言われます。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚の間だけである。」村人はイエスにレッテルを張ってしまったのです。大工の息子。マリアの子。イエスはやんちゃな坊主だった。わたしたちと一緒に住んでいた。

多くの預言者が王から、力ある者たちから、そして人々から迫害されてきました。第一朗読のエゼキエル書でエゼキエルが預言者としてたてられます。あなたはわたしに逆らった反逆の民のところへ行きなさい。そこで主であるわたしの言葉を語り告げなさい。この強情で恥知らずの民のところへ行くのです。人々は耳を傾けない。しかし、自分たちの間に主の言葉を語る預言者がいたことを知るであろう。

また、預言者エレミヤを思い起こします。主が言われます。エレミヤああああああ、お前をわたしの言葉を語る預言者として立てる。エレミヤは言います。わたしは若者です、人生経験もありません。語る言葉を知りません。主は言われます。エレミヤ、お前は人々に、自分の信仰を語るのではない。わたしの命じることをすべて語りなさい。(エレミヤ1・4-) エレミヤは主の言葉を語った。しかし、人々はエレミヤを嫌いはじめ、ついには陥れようとするのです。エレミヤは人々から孤立し、苦しみます。人々は主の言葉を聞いてくれない。もう語りたくない。しかし、主の力によって語らざるを得ない。

洗礼者ヨハネは偉大な預言者でした。しかし、ヘロデ王の誕生会の宴会で、上手に踊ったサロメの踊りの褒美として、首を切られました。預言者の故郷はこの世にない。イエスの故郷はこの世にない。 わたしたちに預言職が与えられています。預言者となりなさい。神の言葉を大切にして歩みなさい。味のある言葉を語りなさい。和やかな言葉を語る、塩でありたい、光でありたい。 イエスのちょっとした寂しさを感じたりします。今日もイエスは天の国を示す一歩を歩いています。わたしたちも小さな預言者として天の国への道を歩んで行きたいと思います。



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