「年間第
20 主日」(B年) 説教
2012年8月
19日・加藤 英雄師


  知恵が壮大な家を建てた。知恵の力が見える形で現れた。 古い言い伝えで諺があります。いろいろな諺を知る。また、信心に対する伝承がある。イエスは言われます。わたしたちは人の世の力によって生きるのではない。神様の御心のうちに生きるのです。この世を巧く生きるのではない。神様がわたしたち一人一人に示された道を歩く。神の国に向かって歩くのです。知恵の食べ物、知恵の飲み物が知恵の家にあります。自分を浅はかな者、小さい者、弱い者を思う人は立ち寄りなさい。分別のない者、理解力がない者も立ち寄りなさい。わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲みなさい。知恵を食べる、知恵を飲む。自分の中に入った知恵によって命が見えます。自分に与えられた道が見えます。

賢い者として生きる。ふと気が付くと、わたしたちは人の流れの中に、人に合わせて歩いている。目立たないようにと思っているのかも知れない。しかし、わたしたちは社会を作って行く者ではないですか。今このわたしたちが生活している社会を見ます。むしろ悪い時代ではないですか。教会は原子力発電の撤廃、中止を求める宣言をしました。イエスは言われました。貧しい者になりなさい。この言葉を噛み締めたいのです。今の生活を維持しようとしたら、今以上の生活を求めたら、今迄と同じ電力、今以上の電力を求めるようになる。貧しくなりましょう。

イエスよ、あなたのしるしは何ですか。イスラエルの荒れ野の旅でパンがなかった時、天の父はモーセを通して天からのパン、マナを与えられました。水がなくなった時、苦い水を甘く飲めるようにしました。また、モーセが岩を打つと水がほとばしりました。あなたのしるしは何ですか。イエスは言われます。わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは天から降って来て、世に命を与えるものである。主よ、そのパンをわたしたちにください。(ヨハネ6・32b-34)イエスは言われます。わたしが天から下って来た生きたパンである。わたしのパンとは世を生かすためのわたしの肉のことである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得る。人々はこれを聞いて驚いた。イエスは、わたしの命のパン、わたしの肉を食べなさいという。イエスは何を言っているのか。人々は箴言の言葉を知っている。知恵の家に知恵のパンがある。知恵の飲み物がある。知恵のパンを食べる。パンは比喩。しかし、今、イエスは天からのパンはわたしの体だという。イエスははっきり言うのです。わたしの体を食べ、わたしの血を飲みなさい。わたしの肉の肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
これこそ、神様を知ること。神様の内に入ることです。 イエスは人々の驚き、呆れ顔に微塵ともしなかった。人々はイエスから去って行く。弟子たちもイエスを離れて行く。
イエスを理解するのではない。イエスの生まれ、育ちを知り、語られた言葉、示された業を理解するのではない。イエスをこのまま受け入れるのです。イエスの全部を食べるのです。これからイエスはエルサレムを訪れます。苦しみの日々が始まります。鞭打たれ、十字架にかけられます。ついには命を失う。ファリサイ派、律法学者の人たちはイエスに力見ていた。イエスを理解しようとしていた。エルサレムで、イエスに理解を超える出来事が起こった。この時、それまでイエスに力を見ていたファリサイ派の人たち、律法学者の人たちは、イエスを捨てたのです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲んで生きる者となりなさい。
イエス様、あなたに従います。


   


戻る