「年間第
22 主日」(B年) 説教
2012年
9 2日・加藤 英雄師


  イスラエル、わたしの教える掟と法を聞き、これを行いなさい。掟、法はわたしの思いを行うための道である。わたしの思いを聞き、わたしの思いの内に掟、法を受け留めなさい。掟、法はわたしの思いの内にあることを忘れてはいけない。わたしの言葉に従う時、わたしの思いの内にある時、あなたたちは命を得る。あなたたちは神様の命の中に生きる。主に与えられた土地に入り、主の民となるのです。 そして、わたしの命じる言葉に何一加えることも、減らすこともしてはならない。忠実に掟、法を守りなさい。主の掟、法を守り、行う時、諸国の民はイスラエルに神の知恵、良識を見る。イスラエルは、神様から語りかけられる民、正しい掟、法を持つ国。これほど豊かな国があろうか。これほど神様の喜びとなる民があろうか。 ファリサイ派の人々、数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まっている。食事時、ファリサイ派の人々律法学者の人たちは弟子たちの行いが気になる。弟子たちの中に手を洗わないで食事をしている者がいる。何と不届きな事をしているのか。ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに尋ねる。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」  弟子たちがある時、イエスに尋ねました。神の業を行うために何をしたらよいのでしょうか。善い事を行うことです。神様の御心の内にある善い事です。 イエスはファリサイ派の人々律法学者の人たちに答えられました。あなたたちは神様の善ではなく人間の戒めを教えとして教え、わたしを忘れている。口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。出来事を神様の御心の内に見るのです。神様の御心の内に語るのです。 イエスは群衆を呼び寄せて言われます。外から人の体に入るもので人を汚す者はなく。人の中から出て来るものが、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。食事前、念入りに手を洗う。市場から帰った時、身を清めて食事をする。杯、鉢、銅の器や寝台を洗わなくてはならない。これがどうして人を汚すのか。それを行うことが神様への道なのか。神様への愛なのか。 ファリサイ派の人々律法学者たちは律法に詳しい。律法を教える。律法によって人を導く。律法を知ることによって人を導く力を得た。昔の人たちの言い伝えを律法の中に入れる。そして守れという。その言い伝えには神様の思いがない。それを律法とする人には神様への愛がない。 先週、月曜日から土曜日まで一週間、函館・当別のトラピスト修道院に黙想に行って来ました。一日に五回祈りがあります。午前3時45分から、晩の祈り、寝る前の祈りの7時15分迄です。そして、最大の祈り、ミサが入ります。神様の御心の内に生活するのです。 善いものは神様からくる。わたしたちは神様の愛に包まれている。神様の口となる、耳となる、目となる…神様を行う体となります。


   


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