「年間第
23 主日」(B年) 説教
2012年
9 9日・加藤 英雄師


耳の聞こえない、舌の回らない人がいた。病気と言いましょうか、体の不自由である。人々はその人は神様から愛されていないと思っている。その人には友達がいない、社会生活が出来ない。しかし、その人には支えてくれる仲間がいた。イエスがその地方に来たと聞いて、仲間たちはその人をイエスのもとに連れて来た。お願いです。手を置いてください。その思いは祝福してください、癒してくださいという願いです。イエスはその人だけを連れ出した。一人になりなさい。一人で神様の前に立つ。神様を見つめ、自分を見つめなさい。マルコ福音書はその人については何も語っていません。イエスに出会った。イエスの平安、大きさ、力を感じた。その人はイエスの思いのうちに、イエスに身を委ねたように思います。イエスは指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。イエスはその人の心の耳、心の舌に向かって「開け」と叫んだのです。その声がその人の心と体に響いた。あなたに神様のみ心が入られた。 その人の心に今日読まれたイザヤ書の言葉が響いたと思うのです。 心に不安を抱く人に言え。堂々とあれ、恐れるな。あなたの神があなたと共にいる。神が来て、あなたを救われる。あなたの渇いていた心に水が湧き出でる。 今、あなたは自然の豊かさを見る。人々と一緒に働く喜びを知ることになる。神様から癒された。体を癒された、心を癒された。この出来事を大切に心にとめなさい。新しく歩むのです。そして、イエスは人々に、誰にもこのことを話してはいけないと口止めされた。しかし、人々はこの出来事のあまりの素晴らしに、かえってますます言い広めた。  神様は小さい者、弱い者に、特に、心を留められます。生きて行くための必要なものを手に入れることが出来ないからです。神様は反対に、力のある者、豊かな者に心を留められない。欲しいものを自分の力で手に入れることが出来るからです。神様などいらない。わたしたちは小さい者、弱い者です。わたしたちは耳の聞こえない者、舌の回らない者の仲間であると同時に、体の不自由な人を支える者でありたいのです。堂々と、恐れることなく静かに、神様への道を歩いて行きたいと思います。。


   


戻る