「年間第28主日」(B年) 説教
2012年10月14日・加藤 英雄師


第一朗読知恵の書はBC1C 頃アレキサンドリアで書かれた書です。ヘレニズム文明が謳歌されていた時、物質文明の誘惑にユダヤ文化の精神性を語りました。 わたしソロモンは祈った。強く願い求めた。すると悟りが与えられ、神の名を呼ぶと知恵の霊が訪れた。人と交流する。必要なのは金銭ではない、財力ではない。豪華なご馳走より、会話の楽しさ、心のご馳走ではないか。見える姿の美しさ、健康、名誉の輝きよりも、心の輝き、心の光を選ぶのです。知恵の光が四方に輝きます。柔らかく四方を包みます。知恵のうちに善が働いている。知恵のうちに善を行うことが出来る。知恵は見えない富の宝庫。この富は、どのような富よりも大きく、深く、広い。この知恵は知識の働きではない。経験による知恵ではない。神様から与えられる霊です。知恵を深く深く、強く強く願い求めます。知恵の大きさを知ったら、王笏や王座はどれほど力があってもこの世の出来事。金も銀もどれほどすばらしい宝石もこの世の富にすぎない。知恵の目で見るなら、この世にあるどんな宝、どんな力も無に等しい。知恵は太陽のように力強く輝くのではなく、月のように柔らかに、優雅に光を注ぎ、四方を照らすのです。静かな動きを心にとめられなければ知恵と出会うことは出来ません。強い力を持つこの世の物に誘惑されてしまいます。この世の豊かさ、喜び、この世の美しい物に心を奪われてしまいます。自分は小さい者、弱い者、何も持っていないと思っていましたが、知恵の霊が注がれた時、与える者となりました。神様の御言葉、御業を示す事が出来たのです。静かな言葉に神様の御心、知恵があります。物を選ぶのではなく。心を選ぶのです。
イエスは旅をしておられる。イエスの旅はエルサレムへ向かう旅です。ある日、イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねます。「善い先生、教えてください。永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのでしょうか。」イエスはまず言われます。「なぜわたしを『善い』というのか。」 善い人だと知るにはその人と一緒に歩くことです。その人と一緒に生活することです。その時その人を知ることが出来ます。永遠の命を求めておられる。永遠に命は歩かなければ出会うことが出来ません。命を知るため、命を求める生活をするのです。命と共に歩くのです。 「殺すな、姦淫するな、盗めな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」心から神の掟を守りなさい。その青年は言います。神様の掟は子供のころから守って来ました。熱心な青年です。真面目な青年です。イエスはその青年を見つめて言われます。善い行いとは律法にかなった善い事であるから、善いのではない。人を愛する、人を支える、そこから出ることが善い事になる。その人のために働くことが善い事なのです。善いとは、自分がなくなるほど与え続けることです。
この青年はイエスを見つけ、走り寄ってひざまずいたのです。イエスは言います。あなたの欠けているものが一つある。あなたは掟に忠実に従っている。すばらしい事です。しかし、あなたはあなたに助けを求めている隣人を見ていない。周りを見渡しなさい。苦しんでいる人、悲しんでいる人、貧しい人、食べ物がない人がたくさんいる。永遠の命へ道がここにある。その道を歩く。今、家に帰り、持っているものをすべて売り払い、その人たちに施しなさい。永遠の命への道の出発です。そしてわたしに従いなさい。わたしと共に歩きましょう。その青年はその言葉を聞き、気を落として、悲しみながら立ち去った。自分を変えることが出来ない。イエスはわたしたちに言われているのです。貧しくなりなさい。しかし、これは自分の持っているものを少なくする、持たなくなるのではありません。自分の心を捨てる事なのです。自分を捨ててゆくと、自分の持ち物がなくなってゆきます。その時、何もなくなった時、与える者になることを知るのです。
弟子たちは長寿、富が神様の祝福だと思っていた。イエスは言われます。それを求めているのか。神の国に入るのは、なんと難しい事か。捨てなさい。イエス様、誰が神の国に入ることが出来るのですか。人の思いのうちに決めてはいけない。神様はその人を見つめておられる。神様はその人に恵みを与えられる。 ペトロが言います。わたしは何もかも捨ててあなたに従って参りました。イエスは苦笑いをしながら、ペトロを見つめ、、弟子たちを見つめて言われます。あなたは捨てて、捨てて何もかも捨てたのですか。しかし、何を得るために捨てたのですか。それは捨てたのではない。一番大切なものを捨てなさい。自分自身の思いを捨てなさい。その時から永遠の命、救いが訪れる。


   


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