「年間第31主日」(B年) 説教
2012年11月4日・加藤 英雄師


神様は人を愛のうちに造られました。愛するお前、わたしの言葉を聞いておくれ。わたしに耳を傾けてほしい。愛はつながりです。信仰はつながりです。つながる、それは聞くことではないでしょうか。まず聞きなさい。聞き入れなさい。受け留めなさい。今日、申命記で主は言われます。生きている限り、わたしの命じるすべての掟と戒めを守りなさい。イスラエルよ、聞きなさい。わたしの言葉を受け入れるなら、あなたは幸いを得る。しかし、文字通りの意味で、主の言葉を聞き、主の言葉を受け入れるのなら、幸いが得られるというのではない。自動販売機のように、神様のいうことを聞けば、運が良くなるというのではない。主の御言葉を受け入れる心の時、主の言葉に心と体が精いっぱい開いたとき、あなたは幸いを知るのです。主の言葉を聞く者となりなさい。心と体全部で主を愛しなさい。
イエスの時代、ユダヤ教には613の掟があったようです。神様の掟・律法だから厳しく守りなさいと求められていたのです。この神様の規則・律法は人に何を求めているのでしょうか。この律法は本当に神様からの掟なのでしょうか。出来事を律法のうちに受け取りたいのではないでしょうか。そんなことを思ってしまいます。 一人の律法学者がイエスに尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者は聖書を覚えるほど読んでいる。律法の先生がイエスに尋ねたのです。その心は、聖書のうちでどのの掟が一番大切にされているのですか、と受け取りたいのです。律法は神様の御心です。どの掟が、一番いのちの喜び、生きるいのちに係る掟であるかを問うているように思います。イエスは答えられたのです。イスラエルよ、聞きなさい。主の愛の思いを聞きなさい。律法は縛るためではない。生きるために語られたのだ。「これをしてはいけない」、「あれをしてはいけない」というような「いけない」の連続の掟ではない。「してはいけない」の掟を「このようにしなさい」の掟と読むのです。なぜなら、神様の思いは、人が神様から注がれたいのちを喜び生きることだからです。生きなさい、あふれるほど喜んで生きなさいと神様は言われているのです。だからいのちを与えてくださった神様を愛します。そして言われます。一緒に生きる隣人を大切にしなさい。
神様を愛する時、自分が生き生きと生きるようになります。神様からの恵みは自分を生かす物だと知るからです。自分の周りにある物、自分の目の前にある物すべてがわたしに語りかけてきます。これらの事は神様から与えられている出来事です。神様を愛している、神様のために与えるものとなりなさいと言われる。自分の周りにある物に与える。自分の周りにある物が生きるものとなる。自分を囲んでいる物のために働くのです。自分のためではなく、神様への愛のために働くのです。第二の掟。隣人を愛する。隣人のために働く。隣人が生きる者となる。食べる物のない人がいます。食べ物がほしい。また、心の食べ物を求めている人がいます。話し相手がいない。語りたい。相手がほしい。愛するとは生きることです。


   


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