「主の洗礼」 説教
2013年1月13日・加藤 英雄師


イエスがヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けられた。わたしたちはこの出来事を知って、イエスはなぜ洗礼を受けたのかと不思議に思いました。そして、洗礼とはどういうものかと考えたのです。
わたしたちは洗礼によって、心と体が清められます。今迄のすべての罪が赦されます。罪が赦されて新しい人になります。罪がない、白い衣を着ます。 
わたしたちは洗礼によってイエスとつながります。イエスは言われます。「アッバ、父よ」と祈りなさい。わたしたちは神の子となります。神様を父ちゃんと呼ぶことが出来るのです。父ちゃん、苦しいよ。助けてほしい、お願いだ、もっと力を注いでほしい。父ちゃん、悪い事をしました。赦してください。神様はわたしたちの父です。そして、神様は今も生きておられるのです。  わたしたちは洗礼によって教会の煉瓦となります。教会はキリストの場です。聖霊の働く場です。わたしたちが教会の一員となった時、教会の中に入った時、わたしたちが教会で働く者となるのです。教会がわたしたちによって社会で働くものとなります。わたしたちは教会を拠点とし、社会でキリストを行うのです。
イエスが洗礼を受ける? イエスは神様じゃないか。イエスは罪がない方、天の父はイエスのお父さん、教会はキリストの場。イエスは洗礼を受ける必要はないではなか。
わたしたちは人の知識でイエスの洗礼の出来事を裁いているのではないかと思ったのです。イエスは洗礼を受けた。イエスの洗礼の出来事で、神様はわたしたちに何を示しているか思いめぐらしなさい、と言っていると思うのです。
神様は神であるイエスを人の世に送られました。人が神様から与えられた道を離れてしまったからです。神様は罪のうちにいる人を悲しまれ、預言者を何人も、何十人も世に送られました。しかし、人は預言者の言葉を全く聞こうともしなかたのです。預言者は人から嫌われ、王、役人から苦しめれられ、追放され、殺されたのです。それが預言者の道でした。 たとえば、エレミヤ(BC626-586)と言いう預言者がおりました。若いエレミヤが預言者として選ばれたのです。わたしは若く、知識も経験もありません。聖書を読んだこともありません。わたしは預言者としてふさわしくない。主は言われます。わたしが預言者を選ぶ。恐れることはない。わたしがあなたと共にいる。あなたはあなたの知識、経験によって神の思いを人々に語るのではない。わたしがあなたを通して語るのである。あなたはわたしの口となりなさい。
エレミヤは預言者となり、神様の言葉を語りました。語ると人々は反対する。わたしを罠にかけ滅ぼそうとする。人々から嫌われました。迫害されました。エレミヤは言います。もう神様の言葉など語りたくない。もう、2度と口を開きたくない、開かない。しかし、神様の力が自分の中に入ってくると、人々に語らざるを得なくなってしまう。預言者でいることが苦しい。
イエスが洗礼を受けた。主は言われるのです。今、この時、わたしの子が預言者となり、神を語る。正義を語る。神のいつくしみ、憐れみ、愛を語る。神の喜びを語る。神様はあなたがた一人一人を見つめてくださっている事を語る。人々は神の温かさを知るようになる。神様に包まれていることを知るのです。
イエスが洗礼を受けたのを見て、神様は喜ばれました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」 イエスは洗礼に何も求めません。神を求める人たちの前で、水に沈められました。水に沈み、死に、水に清められて新しく出発する。この洗礼によって神様への道を行くことを宣言したのです。洗礼の姿でみんなに一緒に歩こうと語ったのです。  水に清められる―イエスは清い方だから水に清められることなどない? 神様からの水はすべてのものを清めます。清い方もその清くする水を受けます。イエスは良く祈ります。清いから祈らないのではない。時には山に登り、祈りで夜を明かすこともあります。
イエスが洗礼を受けられた。あなたの洗礼の時を思い巡らしなさいと言われているように思います。 洗礼とは神様と出会ったわたしたちが歩む道の出発点ではないでしょうか。洗礼を受けたあなた、あなたは今、神様への道を歩んでいますか。あなたにとって神様とは何ですか。神様とつながっていますか。この社会に何を求めているのですか。あなたは生活に何を求めているのですか。あなたは人生に何を求めているのですか。
人となられた神様が一緒に歩いてくださることを感謝します。


   


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