「四旬節第2主日」(C年) 説教
2013年2月24日・加藤 英雄師


わたしたちは神様を求めています。神様は何ものにも比べられないほど力ある方。すべてのものが神様の内にいます。神様は絶対です。ふとその時、わたしたちは安心を求めて神様を求めているのではないかと思うのです。そうではない。神様がわたしたちを求めておられる。わたしはあなたを造った。あなたはわたしの道具です。わたしの言葉を聞きなさい。わたしに耳を傾けなさい。
第一朗読・創世記はアブラムの信仰を語ります。まず、信じるとは自分を確かなものにすると言うことです。主を信じた:主によって自分を確かなものにする。主によって生きている。主によって自分が何であるかを知った。主によって自分の歩む道が見えた。

主はアブラムに言われました。わたしの言葉に従いなさい。あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。(創世記12・1-)アブラムは主の言葉に従ってカナンに向かいました。しかし、その地方に飢饉があり、エジプトに入りました。エジプトを追われます。そして、力を得てきたロトと別れて生活することになりました。別れたロトが捕らわれたことを聞き、助けるために戦いがありました。
いろいろな出来事がありました。これらの事の後で、主はアブラムに臨み言われます。あなたの受ける報いは非常に大きい。主よ、あなたはわたしたちの神様です。あなたはわたしを祝福されると言われました。大いなる国民にすると約束されました。主よ、あなたはわたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がない。わたしに孫を与えてくださらない。祝福が見えません。 主はアブラムを外に連れ出して言われます。天を仰ぎ見なさい。この溢れるほどの星を数えることが出来るなら数えて見なさい。あなたの子孫をこのようになる。アブラムは主を信じました。主はそれを見て、アブラムを義と認めました。 祝福の出来事は何一つ起こっていないと言っていたアブラムは主の言葉を信じた。主がわたしに語った。だから信じた。主が何かを考えるのではない。自分に与えられた主からの出来事が何であるかを考えるのではない。この方が主であるから信じたのです。
主はアブラムの義を認められました。義とは信じることです。自分に得があるところが見えない、苦難ばかり襲ってくる。苦しい出来事に覆われている。しかし、主を信じる。それが義です。 主はアブラムに言われました。あなたの子孫にエジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの土地を与える。

イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っているうちにイエスの顔は輝き、服は真っ白に輝きました。見ると、イエスはモーセとエリヤの二人と語り合っていました。三人の姿は栄光に輝いています。イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について語っていたのです。エルサレムで遂げようとしている最期、「最期」という言葉に「エクソダス」という言葉を使われています。モーセがエジプトから脱出した言葉exodusです。イエスのエルサレムでの出来事はこの世からの出発なのです。 栄光のうちにいる二人がイエスから離れて行こうとしているのを見て、ペトロは叫びます。ここに三つの仮小屋を建てましょう。イエスのため、モーセのため、そしてエリヤのためです。わたしたちはイエスと語り合うモーセとエリヤを見た。この世に神の国が現れた。ペトロはそう思ったのです。これを忘れてはいけない。地にしるしを置かなければいけない。雲が現れて二人を覆った。二人が雲の中に包まれてゆく。その時、雲の中から声が聞こえた。これはわたしの子、わたしが選んだもの。この者にsh互いなさい。この者の語る言葉を聞きなさい。イエスはモーセの律法を完成させる方。イエスは預言者エリヤの、終末の言葉を完成させる方です。

 ペトロ、ヨハネ、ヤコブよ、イエスと共にエルサレムに旅立ちなさい。エルサレムでイエスは神の国に出発します。
ペトロ、ヨハネ、ヤコブはイエスの輝く姿を見ました。栄光の姿。モーセ、エリヤと共にいる語り合う姿。この世で起こることのない出来事です。語ることの出来ない出来事です。

信仰とは何ですか。義です。神様と共にいることです。見えない神様がいつもわたしを見つめておられることを信じることです。苦しい事しか見えない、恵みが全く見えない。温かさがなくなってしまう。心に余裕がなくなってしまう。どうしようもない。しかし、忘れてはいけない。神様はあなたを心にかけている。苦しみに耐えてほしいと思いながら、あなたを見つめているのです。信仰は神様と共にいる安心です。



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