四旬節第4主日」(C年)説教
2013年3月10日・加藤 英雄師

 

第一朗読・コリント書を読みます。 「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。」 イエスはキリスト。キリストに神を見ます。イエス・キリストはわたしたちに呼びかけられます。一緒に歩きましょう。わたしの示す道を歩きなさい。わたしは新しい過越しを祝っています。過越しは命の祭り。エジプトからの脱出ではありませんか。新しい過越しは何処へ向かうのですか。この世からの脱出です。神の国に向かうのです。キリストの過ぎ越しがミサです。いただいた神の命を生きる。 わたしたちは原罪のうちに生まれました。キリストは原罪からわたしたちを救われました。罪とは神様から離れている。神様を知ろうとしない、隣人の苦しみを知ろうとしない事です。キリストは言われます。自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分を捨てた時、神様が働かれます。隣人の苦しみ、困難を背負いなさい。正義を見つめなさい。その重荷が十字架です。神様の者となる。神様の道具となる。神様の者となった時、自然ために働きます。人のために働きます。それが愛です。自分が自分の平安のうちに豊かに生きたいと願った時、神様を忘れます。人は、わたしたちは神様から注がれた命によって生きている。その原点に返りなさい。

イエスは罪人とみなされている人たちに語りかけます。一緒に食事をします。律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスが罪人と一緒に食事をするのを善しとしません。律法学者やファリサイ派の人たちは言います。罪人―律法を守らない人はイスラエルを愛していない。イスラエルは神様の御言葉によって、神様の律法によって今がある。イスラエルは律法によって一つ。律法によって神を知る。律法によって神の国に入るのです。律法を守ることが信仰であり、イスラエルのうちに生きる事なのです。だから、律法を守らない者、律法を大切にしない者を赦すわけないはいかないのです。
今日、イエスは放蕩息子のたとえを話されました。このたとえを聞き、律法とは何か。罪とは何かを考えたいのです。
弟は自由な生活を求めた。お金があれば自分の思う通りの自由な生活が出来る。お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。お父さんは驚く。しかし、お父さんは弟に財産を分け与える。弟はもらったものをすべてお金に換え、遠い国に旅立った。何千万円のお金を持った。弟は罪人です。弟は自由な生活を求めた。父のところは厳しい規則がある。父の家にいると縛り付けられているように感じる。自由になりたい。しかし、この弟の思う自由は、自分の欲求に自由ということです。自由になれば自分自身として生きられると思っている。自分の欲求のままに生きる、その宣言です。本当の自由は与えられた命を喜んで生きることです。自由は神様を知ること、自分の何であるかを知ること。そして、本当の喜びは何かを知ることです。
弟のところに大飢饉が起こった。弟が戻って来た。罪のうちにいた弟が帰って来た。父親は弟を見つけると喜んだ。大いに喜んだ。規則が厳しく見えるこの家に帰って来た。帰って来てくれた。弟は言います。わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。弟の罪は、自分の欲求を満たすため、家を捨て、遠い国に旅立ったことです。欲の世界に入った。遠いところにいる、父と弟とは連絡がつかない。遠いところ:規則のないところです。正しいところからの声が聞こえない。神様の声を聞こうとしない。弟は家を離れて死んでいたのです。神様の命のうちにいなかった。そして、今、弟が帰って来た。命の家に帰って来た。死んだ弟が生き返った。お父さんはこの出来事を喜ばずにはいられない。弟は律法の束縛を嫌った。しかし、今、律法の喜びを知ったのです。律法の心と出会った。律法は外にあるのではない。心に呼びかけてくる命の喜びです。
お兄さんは弟が戻ってきたことを喜ばない。弟は律法に反して家を出た。律法を捨てた。お父さん、あなたのあの息子が帰って来ました。放蕩の限りを尽くして、食べる物に困って戻って来たのです。悪を行っていた。弟はこの家に入る資格などありません。お父さん、律法に真面目な私を大切にしてください。父は言います。あのわたしの息子はお前の弟ではないか。どのような事情があっても弟は弟。弟が命を求めて帰って来たのだ。喜んで迎えるのは当たり前ではないか。人を排除する律法であってはいけない。人に死を求める律法であってはいけない。何のために働くのか。自分のため、律法に従うためか。隣人のために働くのではないか。生きて行けない隣人が、手助けによって生きる。その時本当の喜びが生まれるのではないか。

イエス様の示された信仰の道をしっかり歩んで行きたいと思います。



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