四旬節第5主日」(C年)説教
2013年3月17日・加藤 英雄師

 

イザヤ書を読みます。主は言われる。「わたしはこの民をわたしのために造った。」この民がわたしの思いの通り働くものとなる。人が皆この民のようであってほしい。わたしが造った世界の中で、人に海の魚、空の鳥、地に這うすべての生きるものを支配する、世話をする力を与えた。自然の世話をする。全てのものが命の喜びに生きるために。異邦人たちよ、この民イスラエルを見なさい。イスラエルはわたしによって導かれている。苦しむ、暗闇の生活から新しい出発の恵み、バビロンからエルサレムへの帰還の出来事、この出来事はイスラエルが生きるために神様が導いたのです。まことの神によって人が生きる。
異邦人の部族にそれぞれ自分たちを支配する神がいる。その神によって自分たちの部族が強くなる。その神が自分たちを守ってくれる。たくさんの部族が、たくさんの神様が自分たちの強さを誇り、争う。イスラエルの神はそうではない。神様は人の命を大切にされる。人は人として誇りを持って生きなさい。与えられた命を喜んで生きなさい。戦いを求めない。人は共に生きる。

支え合って生きる。
イエスは神殿の境内で人々に教えておられます。イエスのところに律法学者やファリサイ派の人たちが、姦通の現場でとらえられた女を連れて来て問います。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じてます。あなたはどうお考えになりますか。イエスはお答えになります。あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。 律法学者、ファリサイ派の人たちよ、神殿の前で、神様と出会う神殿の前で、血が流されることを求めているのか。イエスは前に、神殿の境内を清めたことがありました。神殿の境内から商人を追い出したのです。わたしの父の家を商売の家としてはいけない。(ヨハネ2・14~) イエスは言われます。神様は罪人の血も喜ばれない。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18・23)
イエスは律法学者やファリサイ派の人々に言われます。あなた方が石打の刑にしたいのはわたしではないか。
律法学者、ファリサイ派の人たちは律法を通って義のうちに入ろうとしている。律法に純粋に従う。それが神様に対する義であると考えている。律法の内に神様がおられるのですか。いや、律法のうちに神様はおられない。律法は神様の御心を通って働くのです。文字の律法を支配しているのは人ではないか。イエスは言われます。神さまの御心に入りなさい。神さまへの従順が義です。パウロは復活のキリストに出会った。フィリピの手紙で言います。キリスト・イエスへの信仰が神への義です。
 義とは無条件の従順です。たとえば、
* 神様はアブラハムに子孫を与えてくださらない。家の僕が跡を継ぐことになっています。神様はアブラハムに言われました。天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた。 
* アブラハムは愛する独り子イサクを、焼き尽くす生け贄として献さげるように命じられた。次の朝早く、アブラハムはイサクを連れて旅だった。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13・34) 愛とは与えることです。愛とはその人のために働くことです。罪と立ち向かいます。罪人に神様の温かさを示します。神様のおおらかさ、和やかさを示します。
神様への道を歩むことが出来ますように。



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