「復活の主日・日中のミサ」(C年)説教
2013年3月31日・加藤 英雄師


 

  安息日が終わった。日曜日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。マグダラのマリアにとってイエスはかけがいのない、大切な愛する主だった。墓に着いた。あっ、墓の入り口の置かれているはずの大きな石が取りのけられている。墓の中を見る。しかし、イエスのご遺体がない。不思議だ。何か出来事が起こっている。マリアは急いで走って行ってペトロに、また、もう一人の弟子ヨハネに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」ペトロとヨハネはマグダラのマリアを聞いた。すぐ、外に出て墓に行った。「外に出て」という表現が使われています。マリアのいう事が分からないから無視するのではない。自分の内にある考えから外に出る。わからないからその出来事に触れるのです。その出来事を自分の出来事とする。そこに行き、自分の目で見る。自分の手で触れてみるのです。ペトロが墓に着いた。墓の中に入った。イエスはいない。亜麻布が置いてある。不思議な出来事が起こっている。見える物によって判断する。墓にイエスのご遺体がない。入口の墓石が取りのけてあった。見える物を示された見えない思いは何ですか。わたしたちはこれは復活の出来事だと思うのです。この次からのヨハネの福音書を読んで行きますと、復活のいのちに生きるイエスが弟子たちに現れるのです。
イエスの復活を信じます。わたしたちはイエスによって復活のいのちに呼ばれ、招かれているのです。
ペトロは言います。わたしはイエスの出来事の証人です。ナザレのイエスは神様から油を注がれた者、キリストです。イエスは神様と共におられました。いや、神様がいイエスと共のおられたのです。イエスは神様のことばを語りました。神様の業を行いました。人々はイエスを木にかけて殺しましたが、神様はイエスを三日目に復活させられたのです。イエスはその復活のいのち、新しいいのちでわたしたちの前に現れました。イエスと出会い、イエスの道を行く者にイエスは復活のいのちを示されたのです。全ての人に復活の姿を現したのではない。イエスの出来事を知る者に示されたのです。また、イエスによって罪の赦しが受けられると証します。イエスの復活の姿を見た者は少ない。復活を信じる者は少ない。しかし、復活の姿を見た者、信じる者がその信仰のうちに、その出来事の証人となるのです。イエスの出来事の証人となる。復活を証言してゆくことが出来ますように。
ご復活おめでとうございます。


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