「復活節第3主日」(C年)説教
2013年4月14日・加藤 英雄師


 

  イエスはガリラヤ湖畔でまた、弟子たちにご自身を現された。弟子たちはガリラヤ湖畔にいる。ペトロが言う。「わたしは漁に行く。」ほかの弟子たちも「わたしたちも行こう。」と言う。夜、弟子たちは懸命に漁をする。しかし、何も取れない。皆の気分は沈んでいる。夜が明けた。一人の男が湖畔に立っていた。彼は言う。「子たちよ、何か食べる物があるか。」ぶっきらぼうに言います。「ありません。」その男は言います。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」弟子たちは打ってみた。魚がかかった。魚があまりに多くて網を引き揚げられないほどだ。弟子たちはこの男の言葉に従って網を打った。その言葉の言いう通りになった。舟の右側に打ちなさい。そうすればとれるはずだ。その男は漁師には見えない。しかし、その言葉は静かに、重かった。そうしてほしい、やってみなさい。そんな確信を感じさせた。ヨハネはその男にイエスを感じた。その言葉に包むような力を感じた。ヨハネはペトロに行った。「主だ。」ペトロはヨハネの言葉を聞いた。瞬間、イエスへの思いがペトロに心に刺さった。ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちも魚のかかった網を引いて戻って来た。その男、イエスは言われた。さあ、来なさい。ここに集いなさい。一緒に、朝の食事をしよう。静かな一日が始まった。主によって準備された朝食を、主と共に味わう。主イエスはパンを取り、弟子たちにお与えになった。魚も同じようにされた。弟子たちはイエスの命を食べる。
神様のみ心のまま生きる。神様と共に生きる。神様から与えられた道を歩む。神様のために働く。神様と出会った。死を超えた命に生きる主イエスと出会った。イエスは神様の内にいる。神様はイエスの内にいる。わたしたちは神様と共にいたのだ。神様と言葉を交わした。神様は町で人々に話された。神様の人々へのみ業をこの目で見た。ぢま、神様に力づけられている。この喜びを告げ知らせるのです。
使徒たちは最高法院の議場に立たされた。「あの名によって教えてはいけないと厳しく命じておいたではないか。イエスの名によって話してはならないと命じておいたではないか。お前たちはあの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。それはお前たちの勝手な主張である。」ペトロは言う。わたしたちは人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」イエスの名によって、底辺にいる人々は慰められます。希望が与えられています。神様の御心を知ります。神様の愛を知ります。神様がこのわたしたちを見ていてくださる。言葉をかけてくださる。心を、体を癒してくださる。これほどの嬉しさはない。これほどの喜びはない。イエスの名によって、光を見たのです。イエスを嫌う者。イスラエルを導く支配層はイエスの名など聞きたくもない。イエスの名によってイスラエルは混乱が生じている。不安が高まって来ている。イエスによって律法が壊されてしまう。イエスは言う。律法を越えて神様を見つめなさい。イエスの名によって教えてはならない、イエスの名によって話してはならないのだ。
ペトロは言う。あなた方がローマの反逆者として、木にかけて殺したイエスは神様のいのちの内に復活なさったのです。木にかかって死んだ、律法によれば呪われている姿のイエスは、神様のいのちに今も生きておられるのです。わたしたちはイエスの出来事の証人です。
イエスの愛の証人。み言葉の証人。み業の証人。そして、復活の証人です。


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