「復活節第5主日」(C年)説教
2013年4月28日・加藤 英雄師


 

 「時刻になったのでイエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいとわたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」(ルカ22・14~) ユダが出て行ったのです。イエスは言われます。この過越しの食事がわたしがあなたがたと共にする最後の食事になる。今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになりました。ユダによって栄光の時が始まったのです。しかし、弟子たちはイエスの言葉が分からない。苦しみを受ける前にこの過越しの食事あなた方と一緒に出来た。嬉しい事です。そして、わたしは神の栄光を受けたと言われる。 栄光とは神様から与えられる喜び、いのちの喜び、生きている喜びなのに、イエスはこれから苦しみを受けるという。栄光と苦しみがなぜ一緒なのですか。 イエスは言われます。これから起こる出来事を、一つ一つの事柄をすべて心にとめなさい。これから起こる出来事こそ、人の子に与えられる栄光です。そして、この出来事を与える神様が人の子によって栄光をお受けになるのです。今、わたしたちは過ぎ越しを祝っています。過越こそ神の喜び、人に与えられた神様の栄光です。 モーセの過越はイスラエルのエジプトからの脱出です。人は王に仕えるのではない。神に仕える者として生きなさい。神に仕えるために出発をしたのです。神様からの命を大切に生きる。そして、今、イエスの過越、イエスによる神の国への出発です。神の子によって過越の道が導かれるのです。 パウロとバルナバは神の国への厳しい道を言います。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」一方、黙示録は神の国の喜びを言います。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、人々の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」 イエスは言われます。神の国に向かうあなたたちに新しい掟を与える。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」新しい掟を守る。その道を歩む時が、神の国の始まりです。愛する。自分の家族を愛するのでは足りない。隣人を愛する。自然を愛する。助けを求めている人を手伝う。苦しんでいる人のために働く。悲しみを悲しむ。
新しい歌を神に歌え。
神は不思議な業を行い、
わたしたちに神の国を示された。


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