「主の昇天」(C年)説教
2013年5月12日・加藤 英雄師


 

今日は主の昇天を祝います。主の昇天の出来事を思った時、ふと、わたしたちにとって福音は眠っているのではないかと思ったのです。 福音が眠っている。福音とはよい知らせです。原罪が打ち砕かれた。神様がわたしたちに救いの恵みを与えてくださる。神の国へ呼ばれている。わたしたち皆が救われる。わたしたち皆が神の国に行くことが出来る。イエスによって、イエス、あのすさまじい出来事によってわたしたちに福音が訪れた。喜ぶ、大いに喜ぶ。しかし、何か違うと思ったのです。わたしたちは本当に福音のうちに、福音の喜びのうちに生きているか。 わたしたちは神の国はどういうものかを思い巡らします。自分にとって救いとは何か、自分は何を求めているかを思い巡らします。イエスを見つめながら祈ります。聖書を読みます。分かち合います。勿論、日曜日を大切にします。これらはみんな大切な事ばかりです。しかし、わたしたちは神の国を求め、わたしたちの生活は神の国へ向かって歩んでいますか。毎日、祈ります。聖書を読みます。祈りの内にある快さ、聖書を読んでいる時の平安を求めているのではないですか。そして、祈りのうちに、聖書を読んでその充実感の中で、自分の小ささを思い、自分の弱さを思い巡らしているのではないですか。 これほどすれば、熱心な信仰生活というかも知れません。 しかし、この状態を使徒言行録は書きます。(1・11) 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 ガリラヤの人たちはわたしたちです。わたしたちも信仰生活を送っています。神様も恵みの雰囲気のうちにいる。ガリラヤからエルサレムへ向かって歩む。ガリラヤからエルサレムへ向かって歩む道が信仰の道です。エルサレム、神様と出会う場です。わたしたちはガリラヤからエルサレムに向かいます。エルサレムからガリラヤに帰り、またエルサレムに向かって歩みます。何度も何度もエルサレムに向かうのです。もっと深く神様と出会う。もっと深く神様のうちに入って行くのです。 弟子たちはイエスと共に生活をしました。毎日、毎日、朝から晩までイエスの言葉を聞きます。イエスの業を見ています。毎日祈りの生活を送っている。しかし、イエスが天に上げられる。イエスは言われます。わたしが歩んだ道を思い巡らし、わたしの姿に従いなさい。 わたしたちは今、まだ、ガリラヤにいて天を見つめているのではないですか。福音が始まっていない。いえ、そんなことはありません。わたしたちは福音が何であるか知っています。しかし、そんな誇らしげに言ってはいけません。わたしたちが歩き始めた時、福音が始まるのです。隣人が見えますか。自然の豊かさが見えますか。隣人が求めています。助けてください。話し相手になってください。苦しみを聞いてください。自然が求めています。助けてください。壊さないでください。隣人のために、自然のために働く。求めるものを願いなさい。何でも与えよう。(ヨハネ16・24) わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。(ヨハネ16・28) 福音は、今、神様があなたを呼んでいる、その叫びです。わたしの心のうちに歩みなさい。隣人の助けとなりなさい。自然に感謝しなさい。 他人を傷つけた時、欲求に走った時、神様は、父親、母親のように心を曇らせるのです。お前はわたしの子。笑顔で過ごしなさい。 昇天されたイエスはわたしたちの中に入って歩んでくださる。福音とは実は、イエスのすべてです。福音の道を歩んで行けますように。


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