「聖霊降臨の主日」(C年)説教
2013年5月19日・加藤 英雄師


 

 あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。そして、あなた方がわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
新しい掟が与えられました。今迄イスラエルを造ってきた、イスラエルを守ってきた律法はどうなる のでしょうか。律法は神様からのものではないのですか。神様からの律法を無にしてしまうのですか。 わたしたちは律法によって神様への道を歩みました。
イエスは言われるのです。神様と出会いなさい。神様の心のうちに歩みなさい。律法は神様への 道を示すものです。律法の言葉の内に神様がおられるのではありません。人は律法を人の世のものにしてしまった。律法はイスラエルを「この世のもの」にしてしまったのです。イスラエルは神の子の集まりではないですか。イスラエルは神様を求める場ではないですか。律法が律法学者、ファリサイ派、祭司たちの指導の力となった。律法が人によって判断される。律法を人が支配するようになってしまったのです。律法は神様の御心の内にあるのです。神様と出会わなければ律法は神様の御心ではない。
わたしはこの世にあって、この世に属していない。あなた方も世に属していない。わたしがあなた方を世から選び出した。 (ョハネ15.19—)わたしたちはこの世から神様の国に出発するのです。
アブラハムが父の家を離れて、神様の示された地に出発したように。また、モーセがエジプトから 40年の荒れ野を旅して神様の示された土地に出発したように、今、わたしたちはこの世から神の 国に出発するのです。
あなた方が聞いている言葉はわたしのものではなく、父からのものである。わたしを愛してほしい。 わたしを愛する。その時、わたしと父はその人のところへ行き、一緒に住む。愛はつながり。体と心のつながり。その人の思いを知る。その人の中にいるように知る。その人の喜びを自分に起こったように喜び、その人の苦しみを自分に負わされた出来事のように苦しむ。全ての出来事は神様からのものです。イエスを愛しなさい。父を愛しなさい。その時、イエスと父が共に住むと言われる。
神様、来てください。自分の中に神様の場を造ります。自分を捨てます。自分の十字架を背負って 歩みます。
父とわたしの名によって弁護者、聖霊が注がれます。聖霊によってわたしと出会う。また、聖霊がわたしが語ったこと、わたしが示した業をことごとく思い起こさせてくださる。聖霊によってわたしは 永遠にあなた方と一緒にいる。
五旬祭の日、弟子たちは一つになって集まった。一つになって祈っている。弟子たちは 待っている。
弟子たちは出来事に出会った。弟子たちは神の国へ呼ばれている出来事に出会った。主と仰いでいたイエスが十字架の刑に処せられた。律法学者は言う。木にかけられた死体は、 神に呪われたもの。(申命記21・23)イエスは神様から見捨てられたのか。イエスから慰めを 頂いた人々は、イエスに恵みを頂いた人々はイエスを忘れたいと思った。人々はイエスから離れた。しかし、イエスは生きている。死んだ、しかし、わたしたちは生きているイエ スに出会った。そして、イエスは言われた。父がわたしの名によって注がれる弁護者、聖霊を待ちなさい。
今、弟子たちはこの世の力に何も出来なかったことを思い知った。自分たちの小ささ、弱 さを十分に思い知った。今、弟子たちは裸になってひたすら祈っている。自分を捨て神の前に立っている。激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、弟子たちを包んだ。激しい風=聖霊が激しく弟子たちを包んだ。「ことば」が降り注ぎ一人一人の上にとどまった。弟子たちは語り始める。霊が自分のうちに満ち、舌が動くのである。「ことば」は命の言葉。心から流れ出る言葉である。弟子たちの語る言葉が多くの人の言葉になった。五旬祭に、エルサレムにはあらゆる国からユダヤ人が帰って来ているのである。祈りの声が大きく響いている。近寄ると、弟子たち一同の語る声。神様を語る。心から語る。自分たちのそれぞれ違う言葉で語る声が聞こえる。語られる神の思いが心に入ってくる。
聖霊が注がれた。聖霊によって天の父を知る。イエスを知る。聖霊によってわたしたちに与えられている神の命を知る。イエスの心を知る。道、真理、命を知る。聖霊によって隣人がみえます。自然の豊かさが見えます。聖霊によって祈り、聖書を読み、聖霊によってイエスの道を歩みます。


戻る