「年間第10主日」(C年)説教
2013年6月9日・加藤 英雄師


 

  イエスはカファルナウムからナインという町に入られた。弟子たちや大勢の群衆も一緒だった。ナインの町に入ろうとした時、葬式が行われている、お棺が担ぎ出されるところだった。町の人が大勢母親に付き添っている。母親はやもめだった。一人息子が死んだのだ。母親の心は打ちひしがれている。母親の悲しみは激しい。イエスはこの母親を見た。この母親の激しく悲しむ心を受け取った。この母親はイエスの心を動したのです。イエスはこの母親に言われた。「神様の憐みがあなたを包む。もう泣かなくいてもいい。」イエスの声が静かに、しっかりと、穏やかに母親の胸に響いた。イエスは近づいて、お棺に手を触れた。そして言う。「若者よ、起きなさい。」そして、母親に言う。「お母さん、息子さんは生きています。」イエスは息子を母親にお返しになった。
お葬式の群衆を、イエスの群衆が包んだ。皆、悲しみに打ちひしがれている母親を見つめている。イエスは母親に近づく。またお棺に近づき、手を置く。イエスはこの出来事を自分の出来事とされたのです。母親の心がイエスに響いた。母親は神様に、わたしに叫んでいる。その声を受け取る。お棺に近づく。お棺の出来事を自分の出来事とする。息子に声をかける。起きなさい。 何かの出来事が起きた時、そこに行きなさい。行き、聞き、触れ、心を動かす。その時、その出来事が自分の出来事となるのです。社会の中で様々な出来事が起こっている。しかし、その出来事はニュースでしかない。頭の中の出来事です。自分の出来事ではない。見て、考えるのではなく、行って、心を動かし、働きなさい。出来事が自分の出来事になった時、それが始まりです。自分の出来事でなければ何も変わりません。 息子が生き返った。イエスは息子をお母さんに返された。息子が生き返った。しかし、この青年は必ず、また死ぬのではありませんか。この奇跡は息子のためでなく、母親のためだけですか。いや、この青年は神様の憐み、神様の豊かさを自分の体で知った。今生きているこの「いのち」が神様の内にあるということを知った。自分が神様と共にいることを知った。本当の「いのち」に生きている、神の「いのち」に生きていることを知ったのです。今迄の生活とは違う生活を送るのです。
母は息子に神様の憐みを感じます。神様がやもめの願いを聞き入れてくださった。神様がわたしたち、貧しい生活の内にいるわたしたちを見ていてくださっている。神に賛美、神に感謝。
人々はこの出来事に驚き、叫びます。大預言者が現れた。神が民を訪れてくださった。イエスに大預言者エリコを思うのです。神様の出来事がわたしたちの前に行われた。人々は神の国の出発を見るのです。  暗闇の中に光が注がれた。命の光が注がれた。神の国の救いとは何ですか。神様と共にいること。神様のいのちに生きること。愛する者がいることではないでしょうか。
 イエスはわたしたちに言われます。若者よ、起きなさい。歩き始めなさい。


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