「年間第11主日」(C年)説教
2013年6月16日・加藤 英雄師


 

ガラテヤの教会への手紙でパウロは言います。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちはキリスト・イエスを信じました。」  
 神様とのつながりが義です。神様との義のつながり、神様への全くの従順が義です。神様の語られた言葉をすべて受け入れます。自分には理解できない、そんなことは不可能だと思う、しかし、神様の御言葉、だから信じます。 アブラハムは信仰の父と言われています。アブラハムの信仰は義である、アブラハムの信仰の道が全くの義であったのです。99歳になっても子が生まれない。「わたしはあなたを大いなる国民にする」と主は言われるが、子がいない。しかし、ある日、主は言われたのです。あなたから生まれる子が跡を継ぐ。主はアブラハムを外に連れ出して言われる。天を仰いで星を数えよ。あなたの子孫はこのよ。うになる。主の言葉がアブラハムに語られた。アブラハムはそれを信じた。これこそ義です。(創世記15・1-6) 独り子イサクを神様は求められた。捧げます。イサクの奉献(創世記22・1-14) ソドムのための執り成し(創世記18・16-33)義であるからこそ、人のために執り成したいと思う。 モーセの信仰にも義を見ます。エジプトからの脱出、40年間の荒れ野の旅。神様の思いにはずれたら生きることが出来ない。モーセは荒れ野の旅によって義の道を歩んだのでしょうか。いや、神を信じることは神の御心のまま歩むことですと、モーセは義の道を歩むよう求められたのです。アブラハム、モーセ、ほかにも、まだまだ、義による信仰の道をみることができます。 神様の御言葉、御心が律法です。神様の律法が文字によって、昔から、厳しく伝えられて来ました。イエスは言われます。文字になった律法を厳しく実行する事が義ではない。神様の御言葉、御心を受けとめて行う、それが義です。律法は霊のうちに生きています。律法は、今語られる神様の御心です。
あなたにとって信仰とは何ですか、イエスは今日、わたしたちに問われています。あなたは信仰生活を送っていますか。そう問われると、神様を見つめる以上に、まず、自分の生活態度を見てしまいます。悪を犯している。欲求の内に、欲しいものを捜している。利益を求めている。他人を苦しめている。あぁ、神様を忘れています。悔い改めます。自分を見つめ、清さを求めます。欲求をそのまま許してしまった弱さを見つめます。楽しむことだけを求め、自分の平安を求め、わたしの世界は与えられている世界だった。与えることを忘れている世界だった。
あるファリサイ派の人がイエスを食事に誘いました。イエスと一緒に食事をしたい。信仰の仲間と分かち合うひと時、イエスの語る神様をもっと味わいたい、食事をしながら神様を一緒に喜びたい、そんな思いを持っていたのでしょうか。イエスと弟子たち、仲間たちは食事の席についています。ある婦人が、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗りました。寝転がって食事をするので、イエスにはその婦人が見えませんでした。
ファリサイ派の主人、シモンは女を見て、思いました。この女は罪深い女、娼婦ではないか。イエスはこの女をどう思うのか、この女のしていることをどう思うのか。
イエスは、その時、シモンに言います。この女の人の心がわたしの心に入って来ます。涙で足わたしの足を濡らし、髪の毛でぬぐってくれた。わたしの足に接吻してやまなかった。香油を塗ってくれた。婦人はわたしとこのように出会った。その婦人の心がわたしの心に入ってくる。悔い改めている心、赦されている恵みを感じている心がわたしに響いている。心の内にある一つ一つの動作がわたしの心に響いている。この女にわたしを愛している心が響いている。 わたしは婦人に「あなたの罪は赦された。」と宣言します。 婦人が感じている赦されている恵みがイエスによって、言葉によって語られたのです。シモン、あなたはわたしに何を求めているのですか。  シモン、あなたは神様に何を求めているのですか。律法の内に神様を知りたいのですか。わたしの言葉から神様を知りたいのですか。義による信仰があなたを救うのです。


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