「年間第15主日」(C年)説教
2013年7月14日・加藤 英雄師


 

  律法の専門家がイエスに尋ねます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」 イエスは、毎日、町に出て、人々に語りかける。神様を語る。神様の思い、憐れみ、慈しみを静かに語る。その一言一言が聞く者の心に沁みてくる。イエスに安心を見る。 律法学者はイエスは律法を大切にしていないと聞いている。試してやろうと思ったのです。
イエスに問います。「わたしは永遠の命を得たい。そのために何すべきなのですか。」 「永遠の命は神様の思いのうちにある。神様の律法の内にある。神様の律法はわたしたちに何を求めているのですか。」 律法学者は答えます。「律法の教えの根本は、神様を全力を尽くして愛すること、隣人を自分のように愛することです。神様の思いのうちに律法を行うことです。」 「正しい答えだ。そのように行いなさい。」 
律法の専門家は、イエスがどれほど律法を知っているか、聖書をどれほど読んでいるかを試そうと思ったのです。しかし、今、律法の専門家はイエスに教えられてしまった。これは何だ。わたしは律法学者、聖書を覚えるほど読んでいる。イエスに問う。わたしの隣人とはだれですか。
  イエスは思います。律法学者たちは律法の知識によって指導者になっている。聖書の知識によって先生になっている。律法をどのように行うか、聖書をどのように読むかは神様の御心ではない。律法が示す世界を見るのです。人が生きる道を見るのです。律法によって命を知るのです。だから、律法によって縛られるのではない。律法によって解放される。おおいに人と出会う、自然の出来事と出会うのです。
エリコからエルサレムへの道に、砂漠の中の道に、一人の青年が半殺しにされた様子で横たわっている。血まみれである。祭司はその道を通った。レビ人もその道を通った。祭司、レビ人はその青年を見た。しかし、その青年が死んでいたら、その青年に触れたら、清めの日々を持たなければならない。人に出会えなくなってしまう。仕事が出来ない。エリコに着いたら世話をする人を呼ぼう。 あるサマリア人はその人を見た。心が動いた。体が動いた。すぐさま、その人のところへ行く。介抱したのです。憐れに思うとは体が動くことです。祭司、レビ人はその青年の出来事を見た、しかし、その出来事を自分の出来事にしなかった。道の向こう側を通って行ったのです。愛するとは、律法を知っていることではない。出来事を自分の出来事とすることです。その青年の隣人は誰ですか。律法の専門家は言う。「その人を助けた人です。」イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
わたしたちは毎日道を歩いています。道にはいろいろな出来事が起きています。その出来事をわたしたちは見ていながら見ないで通り過ぎて行きます。
  愛、信仰はつながりです。つながりの中に神様が働きます。あなたの隣人は誰ですか。信仰のうち何を、誰を愛していますか。


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