「年間第16主日」(C年)説教
2013年7月21日・加藤 英雄師


 

  先週、わたしたちはイエスから「善いサマリア人」のたとえ話を聞きました。律法学者は律法を習得している、聖書を読みこなす。イエスは律法学者に聞きます。今も働いておられる神様はどこにいるのですか。 人と出会いなさい。人とつながりなさい。出来事を自分の出来事としなさい。人とつながる、そこに神様は働かれるのです。祈りの中におられる神様と出会う、聖書を読んでいて神様と出会う。その時出会う、自分の中に働く神様ではなく、つながりの中に働く神様と出会いなさい。
イエスはベタニアを通った。イエスは家を訪ねる。マルタが大喜びでイエスを迎え入れる。イエスはわたしたちの先生、主です。マルタは精一杯もてなそうと働き始めます。飲み物を準備する。お菓子を作る。ふと見ると、マリアはイエスの足元に座って、イエスの話を聞いている。マルタはマリアを叱りたい。接客のため働くのが、まず、一番の仕事ではないか。マルタはイエスに言う。主よ、わたしの妹マリアはわたしにだけもてなしをさせて、何もしてません。何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるよう仰ってください。イエスは苦笑いされる。マルタ、マルタ。わたしのためにこんなに働いてくれ、ありがとう。マリアは何もしない? いや、マリアはわたしと一緒にいた。マリアはわたしにつながっていた。深く、深くつながっていた。これこそ一番の接待ではないですか。マルタ、マルタの心がわたしに入って来ていない。マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
パウロを思い起こしました。一途に、純粋に神様を求めています。律法を知っている。聖書を覚えるほど読んでいる。イスラエルの伝統の内に信仰生活をおくる。イスラエルは選ばれた民、祝福の源。キリストを名乗る男を中心とする集団、パンを分かち合う集団が活動している。パンを分かち合う。その男は十字架の刑で死んでいるのに、神の命の内に生きていると言う。その信仰はイスラエルの信仰ではない。その集団を許すことが出来ない。パウロは取り締まった。その人たちを捕えて牢屋に入れた。イエスは天からパウロに声をかけた。あなたは何を求めているのですか。神様の姿を求めているのですか。神様は今も働いています。憐みのうちに、慈しみのうちに、いのちの喜びを与えています。律法の内にではなく、聖書の内にではなく、今生きて働いておられる神様と出会いなさい。生きておられる神様の内に律法があるのではないですか。神様の愛と人の姿が聖書ではないのですか。文字によって神様と出会うのではなく、愛によって歩みなさい。
マルタは為すべきことの内にマリアを見ている。わたしたちにとって大切な客が来たのだ。為すべきことはたくさんある。忙しい。しかし、マリアは何もしていない。怠けているのだ。主イエスよ、マリアを叱ってください。姉のわたしにやらせて自分では何にもしていない。イエスはマルタに言います。マルタ、わたしはマリアの心を受け取っている。これこそ歓迎の喜びではないか。わたしはマリアとの出会いを感謝している。マルタ、あなたの心はまだわたしに届いていない。
一生懸命歓迎する。歓迎する心でいっぱいで、わたしを見ていないのではないですか。木が茂っている。しかし、実はなっていない。マリアは善い事をしている。それを妨害してはいけない。
  愛、信仰はつながりです。つながりの中に神様が働きます。あなたの隣人は誰ですか。信仰のうち何を、誰を愛していますか。


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