「年間第19主日」(C年)説教
2013年8月11日・加藤 英雄師


 

  第二朗読ヘブライ人への手紙の書き出しに心がとまりました。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
意味がよく分からなかったのです。 確信という言葉はギリシャ語で、実現する、現実のものになると言う意味のようです。
確認という言葉は証明する、確証するという意味です。 言葉を言い換えて読みますとこのようになります。 「信仰とは、望み求めている事が必ず実現すると信じること。
見えない事実を、これは本当に起こっている、また、これは本当に起こった出来事だと証明することです。」
信仰の父、アブラハムの信仰を見たいと思います。
  アブラハムは神様の言葉を聞きました。今、住んでいるところから離れ、わたしが示す土地に行きなさい。アブラハムは神様に問います。お言葉通り、この土地を去ります。平安な生活を捨てて旅立ちます。新しい土地に入ったら、何を頂くことが出来るのでしょうか。 わたしの、神の祝福を与えよう。財産の豊かな生活では決して得られない祝福を与えよう。あなたはそこで本当の平安を知る。本当の喜びを知る。あなたはすべて人に神の祝福の素晴らしさを告げる者となるのです。 アブラハムは神様を信じています。神様に守られている。力を与えられている。アブラハムにとって信仰とは神様の言葉をすべて受け入れることです。
アブラハムの部族にとって、これから起こることは神様の思いです。神様の導く出来事がアブラハムにとって順境であっても、逆境であっても神様を思い、従うのです。信仰は神様とつながっている平安です。 アブラハムの望みは神様によって生きること、その望みが神様に従う生活によって実現する。見えない神様の思いを行っている、わたしたちの生活の道を見なさい。それが信仰の証明となる。
神様は言われました。あなたから生まれる子が跡を継ぐ。サラは子が生まれない体でした。アブラハムは神様を信じました。アブラハムが100歳、サラが90歳の時、イサクが生まれたのです。 神様は言われました。アブラハムよ、イサクを焼き尽くす生け贄として、捧げなさい。アブラハムはイサクを捧げものとします。神様はアブラハムをほめました。アブラハムの信仰をほめました。アブラハムは神様から自分に苦しい命令を受けた。その時にも、神様を見つめていたのです。
以前にも話しましたが、わたしは33歳で洗礼を受けました。イエスと出会いました。イエスの道を歩みたいと思いました。神父になるのはどうかと主任神父さんに勧められました。神学校へ入る時、面接があります。教区の面接のとき、わたしは言いました。ウエハスのようなパンがキリストの体だと言うことが信じられません。ある神父さんが言いました。教会はそれがキリストの体だと信じている。あなたはそれを信じて、分かるまで待ちなさい。
「望み求めている事は必ず実現すると信じる。 見えない事実を、これは本当に起こっている、また、これは本当に起こった出事だと証明するのですこと。」 まさしく、今、わたしはこのパンがご聖体に変わることをしっかりと信じています。パンがご聖体であるという事実ではなくて、パンがキリストの体に変わる、それを信じるのです。今、わたしはパンになる。食べ物として、あなたの中に入る。ミサの中で、みんなの前でパンがキリストの体に変わるのです。これは本当に起こった出来事、そして、今、起こっている出来事です。信仰によらなければご聖体の神秘が見えません。
信仰によらなければ、アブラハムを理解できません。
今一度、自分の信仰を見つめたいと思います。わたしは神様の道具となっているか。 大切なものが見えているか。いや、大切なものを見ようとしているか。
神様への道、信仰の道をしっかりと歩んで行きたいと思います。


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