「年間第20主日」(C年)説教
2013年8月18日・加藤 英雄師


 

   イエスは言われました。わたしは地上に平和をもたらすために来たのではない。地上に火を投ずるために来たのである。  イエス様、あなたは平和を求める方、平和を愛する方ではないですか。あなたは言われました。 わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。(ヨハネ14・27) わたしたちは平和を望んでいます。互いに笑顔を持って語り合う。助け合う。希望を語り、生活を喜ぶ。そんな毎日が送れたらいい。イエスに神様の救いを見たのです。神様の温かさで心を包む。間違いを糺してくださる。イエスと一緒にいるとおおらかになることが出来る。安心がある。心に希望が生まれる。イエスこそ平和をもたらす方。わたしたちの力強い、平和の王ではなかったのですか。あなたは言われる。地上に火をもたらすために来た。
  わたしの平和を与えると言われます。あなたの平和とは何ですか。地上にイエスが投じられる火が燃える。イエスの火が燃える。悪を焼き尽くす火。清めるために焼き尽くす火。わたしの言葉は人なりこの民を薪とし、それを焼き尽くす。(エレミヤ5・14)
平和を求める、それは信仰の道ではないですか。アブラハムが神の御言葉を聞いた。信じた。今生活している所を捨て、新しい土地に住みなさい。「今」から離れなさい。「今から離れる」とは今住んでいるこの社会から離れなさいというのです。わたしたちはこの社会を作っている。この社会を維持している考えを改めなさいと言うのです。平和がない。助けを求めている人を見ようとしない。
自分を求める心を燃やしなさい。自分を求めるのではない。隣人が生きる喜びを求めるのです。それが平和。自分を求める心、力によって安心を得る。自分しか見ない。自分の城を造りたい。それは悪です。自分を捨てなさい。そしてアブラハムは旅に出た。
アブラハムは戦ったのです。今の生活を捨てる。父を離れる。これから苦労して新しい生活を造って行く。反対する者をどのように受け入れるか。
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるか、どうか注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」 彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らの頑なな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと手は元通りになった。(マルコ3・1‐6)
平和は隣人とのつながりです。つながりがなかったら人が見えない。自然が見えない。神様が見えない。こんなに与えられているのに何も見えない。平和はいのちの道です。喜びに道です。手が萎えている。苦しく思っている。その人の心を見る。安息日は働いてはいけない。手を癒す。命の喜びが生まれる。イエスは言うのです。これこそ安息日の祝いではないですか。いのちの喜びではないですか。律法の思いではないですか。
父と子が、母と娘が、姑と嫁が対立する。つながっていましたか。語り合っていましたか。慰めがありましたか。
一緒にいる喜びがありましたか。
平和は与えられるものではない。つながる。与えることです。隣人が生きる喜びを味わうために働くことです。自分を焼き尽くしなさい。自分でありたい欲求を焼き尽くしなさい。
イエスの死は平和を知らせたのです。愛を知らせたのです。


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