「年間第21主日」(C年)説教
2013年8月25日・加藤 英雄師


 

  イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 弟子の一人がイエスに問います。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」
  主イエスはわたしたちに聞かれます。あなたたちは今、わたしと共に、何に向かって歩いているのですか。あなたたちは救われたいと願っている。あなたの救いは何ですか。 あなたの救いを邪魔しているのは何ですか。
イエスは言われます。救われたいと願うなら、狭い戸口を見つけなさい。その戸口から入り、そこから始まる道を歩みなさい。 その道は細い、石ころだらけの厳しい道です。生活はむしろ貧しくなって行きます。苦しい出来事が起きます。その道をひたすら歩くのです。 イエス様、救いへの道を歩くのになぜそのような厳しい道を歩くのですか。救いからほど遠いではないですか。わたしたちはあなたと一緒に食べたり飲んだりしました。広場であなたの教えを受けました。あなたと共にいる喜びを感じています。だから、あなたが示される救いにすぐにでも入れるのではないですか。 イエス様に与えられるその道を歩いても安心がない。生活に豊かさがない。その道は本当に神様へ向かっている道ですか。救いに通じている道ですか。
イエスと弟子たちは、今、エルサレムに向かって歩いています。イエスは厳しい心でエルサレムへの道を一歩づつ歩いています。弟子たちもイエスと一緒に歩いているように見えます。弟子たちはイエスと一緒ですが、一緒ではないのです。自分たちの歩いている道が見えていないのです。
イエスはエルサレムで救いとは何か、愛とは何かを体を以って示されるのです。エルサレムの出来事が、イエスがこの世で、救いの道を歩かれていた、愛の道を歩かれていた終着です。いや、それ以上に、この世を超えた新しい命を弟子たちに示されました。その出来事がわたしたちの狭い戸口となるのです。イエスの歩いた道がわたしたちの歩く道となるのです。
わたしはあなたたちに「しるし」を与えると言われました。わたしはあなたたちの中に「しるし」の出来事を置いた。その「しるし」をどのように受け取るか、その「しるし」の求める所を行う者が残りの者となります。神様の道を行く者となるのです。「しるし」は大きな重荷です。しかし、「しるし」は喜びをもたらすのです。
「しるし」:弟子たちにとってはイエスと出会ったこと。イエスの言葉、業が愛の出来事であったこと、そして、エルサレムでの出来事です。イエスは血みどろになるまで鞭で打たれ、唾をかけられ、茨の冠をかぶせられ、十字架を背負って、わたしたちの前を歩かれた。何度も倒れて、ついに十字架に釘付けされ、命を奪われた。 弟子たちとはわたしたちです。
人とは何ですか、愛とは何ですか、救いって何ですか、神様って何ですか。「いのち」って何ですか、生きるって何ですか。イエスはわたしたちに大きな「しるし」を与えられたのです。
もう一つ言いたいのですが、なぜ、戸口が狭い、道が細く歩きにくいのでしょうか。 ヘブライ書は言います。 神様への道を歩いているのに、救いの道を歩いているのに、困難な出来事がますます厳しくなってくる。苦労が絶えない。それをそのまま受け取りなさい。目の前に敵がいる。迫害する者がいる。悪口を言う者、暴力を行う者がいる。それを受け入れることが出来ますように。これは神様の愛するが故の試練です。この試練、鍛練を乗り越えて真っ直ぐ、立ち、自分の足で神様への道を、救いの道を歩きなさい。
狭い戸口を見出します。細い道を歩きます。救いに包まれますように。


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