「年間第22主日」(C年)説教
2013年9月1日・加藤 英雄師


 

「何事をなすにも柔和であれ。」そして、「偉くなればなるほど、自らへりくだれ。」、 第一朗読のシラ書です。柔和とは、その言葉は腰の曲がった状態を言うようです。頭が低くなること。お辞儀をしている。そんな状態です。相手の上に立つことはない。下から支えることです。
偉くなればなるほど、自らへりくだる。へりくだるのですから、相手を大切に思う。相手の思いを聞くことを忘れないのです。指導者は聞く者であれと言われているように思います。強い力で人々を引っ張って行くのではなく、柔和な、聞いてくれる人に信頼して一緒に歩くのです。その人はわたしを理解してくれる。だから一緒に歩く、歩きたいのです。
安息日、イエスは会食に招待され、ファリサイ派の議員の家にお入りになった。大勢の人たちが集まっている。招待された方たちが上席に着く。上席に着きたい。婚宴に招待されたなおさらです。招待された、選ばれた、品よくありがとうと言って作られた席に着くのです。上席であったら嬉しいと思いながら、左右を見ながら、笑顔の内に席に着くのです。
イエスは言われます。この世で大切にされたい、それ程までにされたいのですか。 浜尾司教さんはこんな話をされました。わたしが病院に入院すると大勢のお母さま方が見舞いに来る。病室の部屋にお土産が山となる。お花が飾られ、花売りの店のようになる。わたしが司教でなかったら、見まいに来てくれた懐かしい奴との出会いの場となるかも知れない。静かに本を読む場となるでしょう。 大勢に人がお見舞いに来てくれる、嬉しいけれど何か寂しい。
一方では誰も来てくれないと寂しく思う人がいるのです。老人ホーム、寝たきりのホームのお年寄りは何よりも訪問してほしいと思っている。孫の訪問、息子、娘の訪問を待ちわびている。見舞いに来る人は何を見て来るのでしょうか。見てもらおうとしてくるのではないかと思ってしまいます。見てもらいたい、イエスは神様の心に見てもらいなさいと言われるのです。
「昼食や夕食の会を催す時には、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。」 呼んでもらった、そのお返しを考えるのです。あんなご馳走が出た。あんな席を用意してもらった。  それなりのお返しを心配しなければいけない。度々、ご馳走に呼んでもらって何もお返しが出来ない。借りが増えてしまう。そんなつながりはやめなさい。むしろ言います。お返しが出来ない人は幸いである。全く、お返しをもらわない人は幸いである。
神様は言われているのです。偉い人はへりくだりなさい。柔和な人になりなさい。その人とつながるのです。柔和な人に出会いたい。心に整理がつかない事を相談したい。柔和な人と話が出来ればいい。  幸いな人になる。柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5・5)柔和な人は人々の支えとなる。柔和な人は人々に神様を告げる。その人の言葉が人々の心の中に入って来る。様々なところで支えられているわたしたちが、柔和さによって人の支えとなることが出来ますように。


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