「年間第23主日」(C年)説教
2013年9月8日・加藤 英雄師


 

 第一朗読、「知恵の書」を読みます。わたしたちは、神様の計画を知りたい、神様のみ旨を知りたいと思ってしまう。問われます。あなたは神様を超える者になりたいのですか。イエスは言われあました。わたしはあなたがたを、この世にあって、この世に属していない者として選んだ。その時、あなたは神様の思いが心に沁み渡ります。しかし、神様を超えることは出来ない。わたしたちは本当に弱い者です。本当に小さい者です。体に欲求が渦巻いている。体の欲求が心の重荷になっている。この世の住民です。この世のことに苦しんでいる。  神様の聖なる霊が注がれなければ、神様の計画、み旨を知ることが出来ない。
イエスと弟子たちは信仰の都エルサレムに向かっている。エルサレムへの信仰の道を歩いている。わたしたちにとって信仰の道を歩くとは、イエスの弟子としてイエスに従うことです。大勢の群衆が一緒についてきた。イエスは振り向いて言われます。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
自分の十字架を背負って従う者でなければ、わたしの弟子ではありえない。
自分の持っている物を、自分が大切にしているものを、すべて捨て去りなさい。捨てる、捨てる、一切を捨てる。自分の命をも捨てる。裸になって、「自分が何か」を腰を据えて考えるのです。何を求めているのか、何を得ようとして歩いているのか。
自分の十字架を背負って従う。イエスは言われるのです。自分の十字架とは、あるがままの相手を背負うことです。欠点に満ちた相手、そばにいるだけで嫌悪してしまうような相手、欲望の内に罪に汚れている相手を背負って生きる、それがあなたに与えられる十字架です。
これこそ、キリストが背負った十字架です。欲望の内にある、権力を求め戦っている、自分のために相手を滅ぼす、自分の、自分の家族、友人のたちのために平安を求めている。
キリストはその人たちを背負った。その人たちとは、実に、わたしたちです。イエスを縛り、鞭打ち、十字架を背負わせて、ゴルゴタへの道を歩かせた。十字架に釘付けし、命を奪った。人々は十字架を背負って歩くイエスを見た。十字架に苦しむイエスを見た。何もしなかった。
  わたしたちも、隣人を考えようとしない、苦しんでいる人の出来事を、見ていて見ていない人。自分と、自分の家族だけのために戦っている人を、自分の十字架として背負うのです。
背負われている人が背負っている人を苦しめる。背負われている人が背負っている人を苦しみの中に突き落とす。その苦しみを受け取りなさい。人のために苦しむ。馬鹿な奴だと罵られる。その言葉を堂々と受け取りなさい。
一切を捨てて、神様だけを見つめて働くのです。そうでなければ、苦しいだけの十字架を背負えない。自分を捨てるとは、先ほども言いましたが、自分の持っているすべてのもの、そして自分の属するもの全てを捨てる事です。
父さん、母さんも捨てるのですか。捨てなさい。捨てることが出来ません。自分の中にいる父さん、母さん、自分のための父さん、母さんから、脱出しなさい。あなたは父の家にいる(創世記12・1‐4)。 自分の命を捨てるのですか。自分のための命は捨てなさい。神様のために生きる。神様から頂いた命に生きる。隣人のために働く命ではないですか。十字架を背負う「いのち」ではないですか。
捨てる、憎むについて、ひどい言い方ではないかと考えていた。もう一度、考えます。
イエスは言われたのです。自分を捨てなさい。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎みなさい。自分の命を憎みなさい。「憎む」を「少なく愛すしなさい」と考えなさいと言われます。しかし、わたしは言います。イエスの言葉通り、憎みなさい。
自分の大切にしているものすべてを捨てるのです。自分の心の宝箱にあるすべてのものを捨てる、神様の恵み、聖霊で一杯にする。思い切り、全てを捨てて、もう一度、大切だったものを見つめます。その時、大切さが見えます。すべてのものが神様の内にある。すべてのものが神様から与えられたものです。神様の内に父がいる、母がいる。妻、子がいる。兄弟、姉妹がいる。
自分の内にある大切なものを捨てなさい、憎みなさい。そのものから離れなさい


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