「年間第27主日」(C年)説教
2013年10月6 日・加藤 英雄師


 

  今日、特に、信仰について思い巡らしなさいと言われます。信仰とは何ですか。信仰生活を送っていますか、神様とは何か、自分は何かを、一緒に、考え思いめぐらして行きたいと思います。  第一朗読、ハバククの預言、第二朗読、テモテへの手紙からを読み、信仰とは何かを考え、また、ルカによる福音でイエスの信仰についてのみことばを思い巡らして行きたいと思います。
ハバクク書。主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。 わたしたちには今、災いがある。暴虐と不法がある。わたしたちは苦しんでいる。不法を怒っている。主は言われる。この災い、暴虐、不法は誰が起こしたのか。あなたの隣人ではないか。生きるために求める隣人ではなく、自分の欲求のために求める隣人ではないか。わたしに叫ぶ前に、あなたはこれらの出来事に何をしたのか。わたしはすべてを見ている。あなたの叫び声を聞いている。災い、暴虐、不法から起きる争い、いさかいをすべて受け取りなさい。正義を求め、働きなさい。わたしはあなたを包む。あなたは神の救いを見る。これが信仰ではないか。
イエスは力なく、苦しんでいる人たちのために、社会に入ってゆけない人たちのために働かれた。多数の力に対し、小さい者、弱い者を守った。律法を守れない人たちつながり、神様への道を示された。そのため、イエスは社会の囚人となってしまう。わたしたちはイエスと出会った。イエスの道に捕えられてしまった。主イエスから与えられた道を歩みます。わたしたちは主の囚人となったのです。それが信仰。信仰の道を歩のです。
使徒たちがイエスに言う。わたしどもの信仰を増してください。 イエスは使徒たち、弟子たち、わたしたちに問うのです。あなたたちはどのような信仰の道を歩んでいるのですか。今日の福音の箇所から、聖書を読み返しますと、九十九匹と見失った一匹の小羊の話、放蕩息子のたとえ、不正な管理人のたとえ、金持ちとラザロの話、そして、兄弟が罪を犯した時、悔い改めれば赦しなさい、七の七十倍赦しなさい、そのような話が語られています。弟子たちは思ったのではないでしょうか主イエスはたくさんの話を語られている。信仰があれば、イエスの語られた話が分かるようになるかも知れない。イエスのみ心が分かるかも知れない。 
弟子たちには、神様の御言葉である律法を超えるものがあることが分からない。兄弟が罪を犯した時、罰せずに、自分が、人が罪を赦せるのが分からない。

  主イエスは言われる。からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、今植えられているところから抜け出して、海に根を下ろせと言えば言うことを聞く。山に、立ち上がって海に飛び込めと言えばそうなる。信じなさい。神様から与えられる力を信じなさい。 桑に、山にそのように命じ、そのようになる。あなたたちはそのような出来事を信じますか。そんなのはたとえで話されているのではないですか。 わたしは信じます。この桑の木が海に根を下ろす、山が海に飛び込む。この出来事が実現すれば、神の道を歩く全ての者が救われる。そう思うから、そう信じるから、必死で祈ります。祈り求めます。この願いが神様のみ旨にかなうと思った時、この出来事が起こると信じます。
  全く力のないイスラエルが、神様のうちに、エジプトの全権を持つファラオの力に勝った。脱出の時、海が分かれ、イスラエルの人々の歩く道となった。岩から水がほとばしった。
イエスと言う一人の男が人々の心を動かし、ついには、全世界の人々を動かしている。

神様が自分に示された道を歩いている時、自分がいかに小さいか、いかに弱いか、自分は何もできない、何も知らないと思い悟るのです。神様が造られたこの世界で、ほんの少し、自分にとっては精一杯の仕事に、わたしは取るに足りない僕です、と言うほかはないのです。それが信仰です。桑の木、山を動かすような信仰を持てればいい。先ほど、その出来事を信じますと言いました。信仰の深い人がそのように思えば、神様のみ旨のためだと思った時、実現すると思います。余談ですが、現在のイスラエルは砂漠を農園にしています。野菜を作っている、果物を作っている。塩分の少しある水で木を育てている。海の水を利用して、極力、塩分を減らし、野菜、果物を育てる。生きるためです。生き抜くためです。
信仰とは、自分を捨て、自分に与えらた十字架を背負って、イエスに従うことです。自分を捨てた時、神様の偉大さが見えます。自然の素晴らしさがみえます。隣人の尊さが見えます。

わたしたちの信仰を増してください。わたしたちは信仰の道を歩みます。

  愛、信仰はつながりです。つながりの中に神様が働きます。あなたの隣人は誰ですか。信仰のうち何を、誰を愛していますか。


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